空想、今更
自分が死んだ後のことを考えることがある。
特に、自分が死んだら周りの反応はどうなのか、なんていうことを。
そしていつも結論として「自分が死んでも何の影響もない」で終わる。
悲しんでくれる人はいるかもしれない、けれど、それも時間と共に忘れ去られていくか、感情が風化していくものなのだろう。
必要としてくれる人も居場所もないから、誰も何も困らない。
こんなことを書けば、きっとかまってちゃんだとか、同情を誘おうとしているといった風に受け止められるかもしれないが、自分としてはこの現実について、ただただ空しく悲しい。だから、どう受け取ってもらってもかまわない。自分の中の感情だから。
こんな風に考えてしまうのは、逆の人間になりたかったから、だと思う。
誰かに必要とされて、誰かの支えになれて、誰かと生きていける。
何かの役割を持ち、何かの役割をこなし、何かの役割になくてはならない存在になる。
誰かの特別、何かの特別になりたかった。
そうすれば、何らかの価値を人から社会から与えられると考えているから。
けれど、今更それも叶わない。
叶わないことを空想して、たらればをここに書き連ねている。
隣の芝生は青く見えるというのは、そうではなく、実際に見てもしっかり青いんだ。
確かに全てを知っているわけではないにせよ、僕が目にする多くの人達は、誰かに必要とされていたり、何らかの役割をこなしていたりする。
前者は巡り合わせなどが関係しているかもしれないが、後者は努力や頑張りのおかげだと思う。
こんなことを言ったり書いたりすると、優しい人達は僕に何らかの励ましの言葉を言ってくれる。
けれど、僕はそれを実感できない。
一応、言ってくれたことへの感謝の言葉を述べるけれど、心の中では「申し訳ないのですが、そんな人間ではないのです」といった具合に。
実感できない言葉は自分にとって効果がなく、空っぽな感覚がずっと残ったまま。
そうしていると、諦めるという思考になっていき、脱力感で死にたくなる。
「今更」
いつも言う言葉。
便利で自分の気持ちを全て潰してくれる。
「自分の産まれのせいにしてはいけない」
「親のせいにしてはいけない」
「産まれたことに喜びと感謝を」
「ここまで育ててくれた親を大切に」
「誰かのせいにしてはいけない」
「甘えてはいけない」
「自らの力で困難を克服すること」
「いつまでも子供じゃないんだから」
一般常識というものとズレている自分はいけないことばかりしている。
これもまた今更。