楽な死を求めることは、この社会に救いを求めることと同じかも
今日は胃が痛い。
自分の想像力、空想力、妄想力、大体は自分に備わっていて、そのせいで苦しむことが多い。
相手の思考や言動の先読み、結果の先読みとか。
先読みっていうのは、予想のこと。
「こうなるだろうなぁ」とか、大体は失望を前提とした予想。
失望を前提にするのは、自分をある程度のショックから守るための術で、先に諦めておけば、実際に予想が的中しても軽いダメージで済むのではないかっていう。
始めに書いた、胃が痛い理由は、そういった失望を前提としながら、それでも結果に不安を覚えているから。
自分など始めから存在しなければよかった。
なんていきなり書くけど、いつもこの言葉が呪いとして自分にまとわりついている。
いつも母に、姉、兄と比べられ、自分は選択されない側。
選択される様に頑張っても、そんな存在になることができなくて。
だから自分の存在意義とか存在理由に拘るのだけど、そういったものも、第三者によって求められることで、初めて得られるものだと僕は考えている。
価値と類似している。
求められていれば価値はあるが、求められていないのなら価値はない。
ある人にとって価値があるものでも、ある人にとっては価値がないといったように。
存在もまた、同じようなものだと思う。
僕は境界性人格障害で、過去、アームカットをしてその画像をホームページに載せ、当時のネット友達の興味を引こうとしていた。
けれど、僕に付き合いきれなくなった彼らは、僕の下から去った。
それは、当然のことだと今ははっきり理解している。
けれど、理解するには遅かった。
誰かに求められたくてしたことで、結果、自分から人が離れていく。
そして、僕が出した結論は、自分からは積極的に何も求めない。
対人関係で受け身という様な感じ。
自分からは特に何も話しかけたりせず、相手からの連絡を待っている。
自分が求めて、相手に拒否されること、その先の嫌われて離れて行ってしまうことが嫌だから。
相手がメールやメッセージをくれたなら、それはとても安心ができる。
自分に用がある(少しでも求められている)から連絡をくれたのだ、と。
けれど、やはり自分からは何かを打ち明けることができない。
距離感もわからない。
接し方もわからない。
わかることといえば、自分には何もないということ。
自分なりに探しても見つからない。
自分の上位互換なら腐るほどいる。
それでは自分の価値は?存在する意義は?理由は?
などと考えていると、もう嫌になる。
毎回、こんなことを考えて、そういったことに目を向けない様にしてきた。
ただ、ある出来事で、現在の自分を改めて見ることになった。
そして、その結果がこんな文章という形。
死にたい。
前回は計画がどうのとか、場所とか考えたけど、飲めば死ねるものが近くにあるじゃんって。
なに大層なこと言ってんのという感じ。
死は苦しいものなのかもしれない。
苦しくない死を求めることは、救いを求めることと同じようなものかもしれない。
なーんて文章を書いていても、結局死ねずに年を越すんだろうか。
情けないね。
どうして産んだんだ。
っていうのが今、頭に浮かんだので書いてみた。
ずっと、自我の様なものが出てきて、周りを把握できるようになってきたころから思っていたこと。
特に締めの言葉もない。
終わります。
読んでくれてありがとうございます。
それでは。