ε≡≡ヘ( ´Д`)ノ |/// || ///|
久しぶりにここへ文章を書く。
文章はツイッターや他の場面でも書くことはあったけど、大体が短文(自分にしては)で、改めてまとめて書くのは久しぶりだ。
まとめて書くとはいったものの、あまり考えなしに書き始めている。
ただ、一つ、主題というか根っことか、とにかく中心的な気持ちは、自殺について。
これは、他人の死ではなく、自分の死という意味。
死についての受け止め方は様々とはいえ、「生は善であり死は悪である」といった、なんとなくの社会通念の様なものがある。
一方で、僕は、「生と死は両立するものであり、その善悪については、時と場合、立場、主観、客観による」という長ったらしい考えでいる。
ここで指が止まった(筆が止まった的な)。
再開、とりあえず、生や死については、「人それぞれに概念を持ち合わせている」と自分は捉えていますということでした。
さて、人の生死については重く考えられるものの、自分の生死についてはどうだろう。
どうだろうとか書いてみたけど、様になっているだろうか。なんちゃって。
自分の生はとても苦しいもので、生きてはいたくない。
それではなぜ、自分が今も死なずに、この様に文章を打ち込んでいるのか。
もちろん、死ぬ際に想像する痛みや恐怖は最も大きな理由なのだけど、他にもある。
それは、生きてはいたくないが、今、「目の前にあるゲームが楽しいから生きていられる」といった、積極的に生きたい理由があること。
例えば、「期待の新作ゲームが来年に出るから」とかそんなので、積極的に「それをプレイするまでは生きてみようかなぁ」みたいな。
ゲームとか馬鹿か?と言われるかもしれないが、それを何か別の事柄に当てはめれば、なんとなく意味が通じるかなぁ?通じなくてもしかたない。
という感じで、今もただ生きながらえている。
とはいえ、さすがにいつまでもそんなことをしているわけにもいかない。
自分の意思が働いている間に多くのことを決め、決行する。
つまりは自殺のこと。
それはとても怖くて、実行して成功した人が現実にいたとしても怖くてたまらない。
だけど、その恐怖を相殺する方法を用意して、あとは場所と決行をするという具合で、なるべく具体的かつ確実性の高い計画を用意しなければ、と。
詳細は~なんて馬鹿なことを書く気はないが、そうしなければならないというのは、僕の運命で決まっていたことだと、今更ながらに思う。
あなたは自分の運命を信じますか?って新興宗教の勧誘みたいな触れ込み。
脱線した。
僕は、人は産まれてきた瞬間から、その運命は決まっていると考えている。
まるでアカシックレコードみたいな。わからない場合はググってね。
親ガチャなんて言葉も今更。
そんなことにも気づかなかったのかよっていう。
親が産む環境によって、その子供の運命も定められていく。
これはあくまで僕の考えていることなので、押し付ける気はないし、当然、論として穴がありまくりで極端な内容だと思う。
それでも、そう考えざるを得ない。
この様な思考が浮かんでくるのも、防衛機制の一種なのかな。
わからん。
また脱線したような気がする。
今、ここまでで、改行を入れたらなんと1285文字くらいだ。
読んでくれてありがとう。
話を戻す。
始めから定められた運命に抗うことなど不可能というか、その抗うという行為すらも定められている。とかいう定めのゲシュタルト崩壊。
運命の話は以上。
2021年ももうすぐ終わり。
ちなみに、僕の人生はとっくに終わってます。
笑えないが、笑ってくれたら嬉しい。
全てを諦めて、それで刹那的に生きながらえて、それでテキトーだったりもして。
ただ、自殺はそうもいかない。
という決意表明でした。
「なにが決意表明だ、どうせできねーくせに!」
っていう声が聞こえてきそうだし、言わずともまぁそう思われていると想像している。
見返す気持ちもなく、淡々とね。
明日のFGOのイベント楽しみだなぁ!
はい、終わり。
そいジャ、マタ |/// |(Д´ )ノ"| ///|ウィーン