くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

飲まれないように。

携帯のメールアドレスって、赤外線通信でもらっただけじゃ相手に自分のアドレスって届かないんですね。
なんて当たり前であろうことも知らなかったという僕です。

連絡が来ないなぁと思っていたら、ん?よく考えてみると・・・といった具合で気づきまして。

相手は、僕が日頃お世話になっている方で、今度何かボランティア的なことをしようと誘われたため、その連絡方法に携帯のメールを、と。


最近、よく聞かれる「この後、どうする?」。
僕はこの後どうするか、全く決めていません。
真っ新と言えば聞こえがよく、真っ暗と言えばそれもまた当たっている様な。


日本では「30代まででその人の人生が決まる」そうです。
人づてに聞いたので、実際にそうなのかはわかりません。

そんなことがおかしいよな、なんて思っちゃってる僕がおかしいのでしょうか?

「人生、生きていればどうにでもなる」なんて励ましておきながら、一方で「人生は30代までで決まる」だなんて言う。
そんな社会からの言葉の、整合性ってのが取れていないよなぁと思います。


僕は、30代までで決まるとはどうしても思えなくて。
希望的観測ってヤツですかね。

30代までで決まるとか言っちゃうから、皆焦って死ぬのかなぁ?とか思ったり。
「仕事していることが美徳」ってのにも、どうも自分は理解できなくて。
「仕方なく仕事をしている」という表現の方が僕には理解ができて、そうすると、仕事をしていることが美徳に感じられないんです。

義務感に駆られてやる物事なんて美徳じゃないよなぁとか考えます。
美徳とは何ぞや?と聞かれたら、うーん、高尚なものと答えるんですが。

僕は、仕事に人生を飲まれていく感覚ってのがあって、それが何か違和感の原因なのかなぁと。

誰が為に働く?
家族の為?自分の為?
その仕事とやらが何かの為であるとするなら、その目的にかなうものとして、きっと良いのだろうけど。
それでも、その目的に飲まれて苦しくなって、そうやって自分を苦しめることが僕は嫌で。

意味を見出そうとして、意味を見失う。いや発見できていないのか。

勉強もそう。
大学に入らなきゃいけない、なんて義務感に駆られて勉強に人生を飲まれていく。
大学に入って何かを得たいが為にという目標があり、それでいてその目標へ進むことが自分を苦しめることにならないのなら、僕はかまわないと思う。

けれど、それが何らかの安らぎ、楽しさ、喜びも無く、ただ目的に飲まれ苦しむだけなら、勉強や進学なんてものに僕は否定的になってしまう。

だから、大学に入学したら勉強よりも自分が楽しいことをやれば良い。
就職活動?それ自体に僕は否定的。
だって、苦しいだけだから。

「苦しいことがあるから、楽しいこともある」というのも確かにそうだろう。
けれど、就職活動は僕にとって苦しさの連続でしかなかったし、結局その成果、つまり内定及び就職をすることができなかった。

こんな現状から、僕が発する言葉は負け犬の遠吠えなのかもしれない。
そう受け止めるならそうでもかまわない。

ただ、繰り返しになるけれど、僕は、目的のために苦しむだけというのはおかしいと考えています。
目的へ向かう途上、何かしらの他の感情が重なり合ってであれば良いと思います。


何を書きたかったのか、また支離滅裂。

何かの物事に飲まれちゃいけない。
固定観念なんて、既存の概念なんて捨てちゃえばいい。
お先真っ暗、真っ新?
それは、固定観念や既存の概念に当てはめて、僕がこの先を見ているからなのかもしれませんね。
言ってる僕自身がまだ捨てられずにいる。

捨てられる固定観念、既存の概念等は捨て去りたり。
そうすれば、僕が適合できないでいる現在の社会に、「適合しなければならない」なんていう義務感に飲まれることもないだろう。


明日はお話会(ミーティング)。
お話会自体の名称は決まったのだけれど、ちょっと恥ずかしくて書けない。
明日は、大学院生さんが見学にくるらしい。
見学して何か得られるものはあるのかな?

当事者同士の話し合いを、第三者が見る。
その感想は、是非聞かせていただきたいものだなと思う。
けど、そこまで求めるのは酷だろうから、ただ見てもらうだけでもいいかなと、僕は考えています。

ああ、それと僕自身のカウンセリングか。
最近、体調が悪いという自覚があって、希死念慮が強い。
自暴自棄、なのかわからないけど、自殺する勇気がないなら身体を壊して死んでしまいたいなって。
病死。
ツイッターで、うつ病による自殺も病死だろうって言われて、ああその通りだよなぁと思いました。
僕はその場合の病死は怖いので、身体にダイレクトに悪い病死がいいなと考えました。

それでは。