自傷行為など要領を得ない行為の意義について
どの様な行為も自分の自由な意志でしたことなら、それは自分自身でその結果を処理するしかないのだろう。
他方、不可抗力で限られた選択肢の中、選ばざるを得なかった行為については、誰かのせいにしてもいい。むしろ、その方が当然だ。納得できないまま強制的にさせられたことなどを「誰のせいにもするな」などと宣う人間の方がおかしいと僕は思う。
自分ではコントロールできない意志でした行為についてはどうだろうか。
自傷、強迫、過食、拒食など、他者からすると要領を得ない行為でも、本人にとっては生命線であったりする。
僕は自傷行為と強迫行為が一番酷かった。
例えば、自傷行為は当初は誰かに心配してほしいという気持ちが少しあった。少しでいいから自分に目を向けてほしいという思いがあった。
けれど、それがだんだんと変化していった。
誰かに心配されたいという気持ちから、自罰、自分を苦しめることで心が楽になる、という動機に変わっていった。
伝わりにくいだろうけど、自傷行為が自分を慰める行為になっていった、という感じ。
「誰も自分のことなど見てはいない、心配もされない、こんな人間は存在していても仕方がない。価値のない人間など死んでしまった方がいい」。
しかし、死ぬことは簡単じゃないから、その代わりとして自分を痛めつける。
自殺の代替行為とも言えるのかなと。
自棄になる気持ちやどうしようもない気持ち、虚しさ、孤独感、他にも自分にとって負担になる感情全てを、消去したい、誤魔化したい、と。
実際、自傷行為の後はすっきりしていた。
血を見て安心するといったことや傷跡に見惚れるといったことではなく、痛みを感じることですっきりする。
様々な感情を自傷行為で上塗りしているかの様な。
と、こんな風に文章に書き起こしても要領を得ない。
それに、これは僕の自傷行為に対する位置づけであって、他人のそれとはまた違ったものであると思う。
だから、自傷行為や上記の行為達の動機を説明しろと言われても、なかなか難しい。
ただ、僕はこれらの行為は「とりあえず生きるのに必要な行為」だと考えている。
なんとなく矛盾しているかもしれないが、生存本能が人間には備わっているから、きっと脳への負担を軽くするために、究極の終わりである死以外の方法として、自傷やそれらの行為を代わりにさせているのではないか?という。
僕は、自傷行為やその他の行為について、否定も肯定もしない。
ただ、必要だと自分だと思うのであればすればいいし、必要がないと思えばやめればいい。
実際、やめたくてもやめられないから困っている、という人の方が多いかもしれない。
緊急避難的にしている行為も、もしかすると将来へつながるか細い糸になるかもしれない。希望は持たせたくないし、僕自身、希望なんて大嫌いだけど。
命をつなぐことということだけを考えれば、それらの行為にもなんらかの意味があるのだろうって。
自傷行為について一つ注意すべき点は、仮にするなら、なるべくなら上腕にしておいたほうがいいということ。
Tシャツで隠せるから。しないに越したことはないけどね。
これは口癖のように言い続けていることだけども。
自傷行為も他のも何が悪いって、そんなことをさせるような人間にした周りが悪い。
「また誰かのせいにしている」と言われるだろうが、実際にそうなのだから仕方ない。
「おかしな行為をしている」という認識があるのなら、「なぜその人間はおかしな行為をしているのか」までを考える必要がある。
大体は、頭がおかしいとか、かまってちゃんだとか、とにかく関わりたくないとして、個人のせいだと決めつけたがる。その方が答えとしては出すのが簡単だし、考える必要がないからね。
けれど、実際には多くの周りの環境が要因となって、それらの行為に及んでいるのだと僕は考えている。
自傷行為をする人としない人がいるのは何故か?
希死念慮を持ち生きている人と、持たずに生きている人がいるのは何故か?
原因があって結果がある。
抱えている問題は人それぞれだ。
問題を抱えていない人もいるだろう。
理解しようとしなくてもいいから、ああそういう存在もいるのか程度に認識してもらえたらいいなと思う。
心無いことを言われて積極的に傷つけられるより、無関心を装ってもらえる方がありがたい。
心に余裕のある人が、心に余裕のない人を傷つけて何になるのか、と。
特にオチはないけど、なんとなく考えたことを書き出してみた。
こんな文章も、長文だから読んでくれたらありがたいし、読まれなくても仕方ないと思う。
それでは。