空想、今更
自分が死んだ後のことを考えることがある。
特に、自分が死んだら周りの反応はどうなのか、なんていうことを。
そしていつも結論として「自分が死んでも何の影響もない」で終わる。
悲しんでくれる人はいるかもしれない、けれど、それも時間と共に忘れ去られていくか、感情が風化していくものなのだろう。
必要としてくれる人も居場所もないから、誰も何も困らない。
こんなことを書けば、きっとかまってちゃんだとか、同情を誘おうとしているといった風に受け止められるかもしれないが、自分としてはこの現実について、ただただ空しく悲しい。だから、どう受け取ってもらってもかまわない。自分の中の感情だから。
こんな風に考えてしまうのは、逆の人間になりたかったから、だと思う。
誰かに必要とされて、誰かの支えになれて、誰かと生きていける。
何かの役割を持ち、何かの役割をこなし、何かの役割になくてはならない存在になる。
誰かの特別、何かの特別になりたかった。
そうすれば、何らかの価値を人から社会から与えられると考えているから。
けれど、今更それも叶わない。
叶わないことを空想して、たらればをここに書き連ねている。
隣の芝生は青く見えるというのは、そうではなく、実際に見てもしっかり青いんだ。
確かに全てを知っているわけではないにせよ、僕が目にする多くの人達は、誰かに必要とされていたり、何らかの役割をこなしていたりする。
前者は巡り合わせなどが関係しているかもしれないが、後者は努力や頑張りのおかげだと思う。
こんなことを言ったり書いたりすると、優しい人達は僕に何らかの励ましの言葉を言ってくれる。
けれど、僕はそれを実感できない。
一応、言ってくれたことへの感謝の言葉を述べるけれど、心の中では「申し訳ないのですが、そんな人間ではないのです」といった具合に。
実感できない言葉は自分にとって効果がなく、空っぽな感覚がずっと残ったまま。
そうしていると、諦めるという思考になっていき、脱力感で死にたくなる。
「今更」
いつも言う言葉。
便利で自分の気持ちを全て潰してくれる。
「自分の産まれのせいにしてはいけない」
「親のせいにしてはいけない」
「産まれたことに喜びと感謝を」
「ここまで育ててくれた親を大切に」
「誰かのせいにしてはいけない」
「甘えてはいけない」
「自らの力で困難を克服すること」
「いつまでも子供じゃないんだから」
一般常識というものとズレている自分はいけないことばかりしている。
これもまた今更。
The Last of Us Part IIのネタバレありの個人的な感想(レビューのようなもの)
The Last of Us Part IIについて、主にストーリーを中心に書いていこうと思います。
先に基準となる点数を5段階評価で。
2.5/5点
ちなみに前作は5/5です。
まず良い点を。
戦闘は前作とあまり変わったところはないので、前作が面白いと感じたならそのまま楽しめると思います。
一方、ステルス要素やクリッカーの一撃死にいら立ち合わないと感じた場合は、今作もそのままなので楽しめないと思います。
自分は一撃死は苦手なものの楽しめたので、4点としました。
次に、映像はやはり綺麗です。
僕自身、あまり映像にこだわりはないのですが綺麗だと思います。
バグに合うこともなかったので5点で。
一方、悪い点を。
はっきり言って、ストーリーが全てマイナスです。
ストーリだけで1.5/5くらいにしてしまいそうなくらいです。
ここからは完全にネタバレなります。
まず、最初に、ジョエルは序盤で死にます。
前作のラスト、病院でエリーを助け出す際に殺害した医師の娘、アビーという女に殺されます。
今作の僕の不満点は、発売前はエリーに焦点を当てておきながら、実際は2人のキャラを中心に話が回っていくという点です。
ということで、今作はエリー操作パートと、アビー操作パートの2つに分かれています。
ストーリーとしては、エリー操作時はジョエルを殺したアビーや、その仲間への復讐のために行動するというもの。
アビー操作時には、ジョエルを殺すことになった理由、アビー側にも事情があったというような話。
彼女がアビーです。
今回、僕が好きではなかったのは、前作の主要キャラをあっさり殺し、続編のストーリーのきっかけを作りながら、しかし殺す側にも理由があったんだといった内容です。
その内容を簡単に言えば、「復讐は復讐しか呼ばない」という、どこかで見聞きしたようなメッセージ性しかなかったということです。
事前情報で、凄惨な出来事をきっかけにエリーが復讐に及んでいくといったことが示唆されていたので、ある程度の悲劇は予想していました。
ジャクソン(ジョエルの弟であるトミーとその妻マリアが作り上げた集落)が破壊されてしまうとか、住民が皆殺しにされてしまうとか。
今作の悪は、完全な悪など存在しないのかもしれませんが、本当に中途半端な悪でした。
アビーとその仲間達はジョエルを追い、拷問し、殺した。
しかし、その場にいた弟のトミーも、義理の娘ともいうべきエリーも殺さず、結果的に同じくその場にいたアビーの仲間達がエリーに殺されるという有様。
それに逆上し、またエリーを追うアビー。
なんだこれは。
エリーパートは復讐ルート。
エリーは、パートナーの女性とアビー一味を追い詰め、殺して回ります。
ただ、その二人のやり取りに緊張感や悲壮感がなく、なんとも軽い復讐劇だなぁと。
アビーパートはジョエル殺害の正当性や、人柄の良さ、といったことを思い知らせるルート。元カレとの感情の揺れ、人助け、最終的には悲惨な扱いを受けるが命拾いをしてどこかへと行く。正直、どうでもいい。
何を伝えたいのかがわからないと思ったけれど、やはり始めに書いたように、
「復讐は復讐しか生まない」というありふれた内容のように感じました。
今作ではファイアフライが解体しており、代わりにウルフという集団がファイアフライを吸収する形で存在しています。
そして、スカーと呼ばれる預言者の言葉を信じる宗教団体が存在し、互いに対立しています。
最終的には全面戦争になるものの、その映写も駆け足で中途半端でした。
アビーはラストの方でなんちゃらとかいう組織に捕縛され、奴隷のように扱われていました。
それをエリーが見つけ出し、海辺で格闘戦。
エリーが見逃す形で話は終わり。
エリーは、ジョエルとアビーに噛み千切られた指と、パートナーを失った(これは確定かわからないけど)。
とにかくストーリーが消化不良。
また、性映写とか恋愛のやりとりとか、どうでもいいところを見せられるのが苦痛だった(ストーリーを知りたいからムービーは所見で飛ばしたくないため)。
それと、前作のステージ構成の使いまわしともいえる、あのスナイパーステージ。
今回の狙撃手はトミー。
不満を言えばきりがなく、今作が好きな方にとっては僕が書いた内容について、腹が立ったかもしれません。
ただ、僕自身、今作に期待していた部分があり、安易なメッセージ性や様々な面で中途半端なストーリーとキャラにはがっかりでした。
エリーだけを操作するかと思いきや、実際はアビーも主要なキャラとして操作するという、メタルギアソリッド2かよと突っ込みたくなるくらいです。
メタルギアソリッド2はまだ雷電の成長などが見られた点ではよかったのですが、今作はジョエルを殺した言い訳を、アビーを操作してその言い訳を聞かされているようで苦痛でした。
ということで、僕は好きになれない作品でした。
それでは長々と読んで頂いた方がおられましたら、ありがとうございました。
真偽、解毒、無駄
始めから味わわなければよかった、ということが多い。
偽りの愛情でも触れてしまったら、それを本物の愛情だと勘違いして妄信してしまう。
本当の愛情を知らないから。本当の愛情といったものを知る機会など限られているが。
ほとんどの人間が初めて愛情を受け取る相手が、保護者だろう。
保護者と書いたのは、親がいない人なども含めた場合のことを考えてのこと。
先ほど書いた通り、何が本物で何が偽物の愛情かなど判断しようがない。
だから、保護者に与えられた愛情が歪んでいても、それを疑いもせずに信じてしまう。
比べるものがないのだから、それが愛情だと言われたら信じるしかない。ということだと思う。
だからこそ、毒親といったキーワードが出てきているのだと思う。
自分の親はまともな言動をする人間だと信じ、それが傍から見れば理不尽であったり不可解であったりしても、疑わずに従う子供。
気づいたときには大体、何かしらの影響が精神(脳)に与えられていて、手遅れだったりする。
解毒する方法はあるのかもしれないが、毒親も千差万別のため、決まったものがない。
だから、一人ひとり、毒親というものに苦しんでいるのだろう。
父の日が近いということもあり、親を素直に敬うことのできる人が羨ましくなる。
親のためにプレゼントを選び、それを渡した際に喜ぶ姿を見て自分も嬉しくなるといった様な話が。
僕には親を敬う心が全くない。
現在、迷惑をかけながら生かされていることについても、負い目はかすかにある程度で、謝ろうという気持ちも強い罪悪感もそれを改善しようとする気もない。
その下地には、僕を保護してくれなかったことについての恨みがある。
一番近くにいたのに、何もしてくれなかった。
何も知らない人がこの文章を読めば、「こいつはなんでも人のせいにする甘えた馬鹿なガキだ」と判断するのだろうが、もう説明も面倒くさい。
僕が傷ついている間に何もせず、それどころか僕を余計に傷つけ、追い込み、脳を壊した人間と、それを傍観していた人間を、どうして敬うことができるのか。
「産んでくれたことに感謝を」などと宣う輩がいるが、「お前は要らない」と直接、親から言われたとして、それでもその台詞を吐くことができるだろうか。
僕が必要だったのは、両親が結婚をするためであって結婚をしてしまえばもう価値はない。
子供は離婚の弊害となる鎖のようなものとなる場合があるかもしれないが、僕の場合はその鎖にすらなれず、ただのきっかけに産み落とされた不必要な命でしかなかった。
それを実際に知ってから、自分の価値や存在意義を強く意識するようになったし、自己肯定感が上がることもなくなった。
どんな言葉も前向きに捉えられず、返答する際にはありがとうと言っていても、実際はそんな風には思えなくて。
どのような命も尊いという人もいるだろうが、それでは実際に僕を尊い存在として扱い続けてくれるのか?
一時の励ましで適当な言葉で誤魔化すのはもういいよ。
価値とは人に与えられるものなのだろうが、その与えられた価値を実感できなければ、いつまでも自分は無価値であるとしか思えない。
だからこうして今も、無駄な命を無駄に時間を浪費して無駄に生かされている、と言う感覚でいる。
自分の口癖。無駄。
自分自身に常にまとわりついている言葉だから。
以上。
甘党
病院へ行き、専門医に診断を受け、病名や障害を診断されたら、それが免罪符となって自分で罪と感じられていたものが軽くなることはある。
「どうして自分はこの様な考え方や言動をしてしまうのか?」という罪悪感のようなものを、病気や障害のせいにしてしまえるから。
誤解してほしくないのは、病気や障害のせいにすることが悪いと言っているのではない。むしろ、本当にそうなのだから病気や障害のせいにしてしまって構わない。
実際、病気や障害を抱えているにもかかわらず、通院せずにそのまま見過ごされると、他人からは健常者と同じ扱いや言動を求められるだろう。
そして、ただの甘えだと見なされて、努力が足りないだのやる気がないだの集中力がないだのと非難される。
そういう意味で、専門家に病名を付けられることや障害を認められることで、病人、障害者として見られることが、多少なりとも扱いや求められるものが軽くなることがあると思う。
もちろん、それすら「甘えだ」と宣う輩もいるけれど、そんな奴らは無視。
何かのせいにすると、いつも「自分が悪いのに、お前は他人のせいにしてばかり」という説教を受けることがある。
一から説明するには労力がもったいないし、そもそもそういう輩は人の話を聞かないから、説明するだけ無駄だしそんな義理もない。
だから同じく無視で。
「甘え」という、どこまでも自己責任を求めてくる言葉が大嫌いだ。
甘えている他人が許せない人は、自分が厳しい生活を強いられていて、他人の生活が自分より楽そうに見えると羨ましくなり、それが嫉妬心に変わって怒りや憎しみ、嫉妬心となっていくのだろう。
他人と比較することをやめられないのはわかる。
だけど、他人と自分を比較して、他人を攻撃するのは僕は共感できない。
常套句だけど、人それぞれだから。
「楽に生きているように見える」まで、どれだけの出来事や周囲に振り回されて心身ともにボロボロになったことなど、知らないのだろう。
感情も滅茶苦茶になった末に、やっと今のこれを保つことができていることを想像できるだろうか。
と、こんなことを書いても、「ああ、また甘えていることの言い訳か」という反応をする輩がいるから、本当に嫌になる。
分かり合えない人間とはかかわりたくない。
分かり合おうとする人とだけ接していたい。
自分を傷つけようとする人間とわざわざ能動的に接触する必要はない。そんな経験などなんの糧にもならない。
自分の「甘え」をそうではないと認識してくれる人とだけ、分かり合えたらそれでいい。
来る者、去る者、来訪、拒む者、孤立
来るもの拒まず、去る者追わず。
去った後、再び来た者は受け入れず。
ネット上だけでも多くの場面でつながりがある。
そういった一つ一つのつながりを断っていけば、ネットに依存している僕は孤立してしまう。
それでも、人にしがみつくほどの勇気も力も魅力もない。
自分自身、消去癖があるから人との関係を断ってきた。
だからその気持ちはわかる。
けれど、全ての関係性を断ったことはなかった。
何かしらのつながりや痕跡を残すというずるいやり方で、これまでやってきた。
そのおかげで人とのつながりが今も保てているところがある。
現在、様々なSNSで相互フォローなどの制度が採用されている。
そんな中で、知らぬ間にフォローを外されていたり、けれど相手のアカウントが残っていたりすると、ああ相手にとって僕は既に必要のない人間なんだなと判断する。
また、たとえ一つでも痕跡を残していたとしても、それを上回る数で関係性を切られてしまっていたら、同じように自分を否定されたような気分になるから、同じように何もかもを諦める。
以前にあった、ツイッターでフォローしてもらった後に、一度、フォローを外されて、再びフォローしてもらった方がいる。
その真意は不明だし、問うこともできない。
結構、絡んでいたということもあり、余計に距離感や自分の間違いなどがわからなくて。
ただ、なんとなく今も距離感を感じている。
一度、拒まれた相手をもう一度受け入れるということはとても難しい。
僕はもう孤立の道を歩むしかないのかもしれない。
いつも、こんなことを言いながら諦めきれずに誰かにすがろうとする。
けれど、僕も今年の6月7日でまた一つ歳を取った。
このようにして、僕は当然に誰にも相手にされない古ぼけて良いところが何もない人間として、息をしていくことになるんだろう。
こんな人間として生きていくことに意味などないが、僕にとっての楽しみは既にゲームしかないから、それを楽しみに刹那的に生きていくしかない。
直近の気になるゲームはラスアス2、ゴーストオブツシマ。
それに、モンハンの7月アップデート。
これらを糧に生きていくと思う。
別にそれらをプレイせずに死んでも後悔はないけど、とりあえず一番近しい楽しみとして持っておく。
世間ではいろいろと何かが動いているけれど、正直、もうどうでもいい。
気になる話題があっても、何かを言うほどでもないし別の誰かが代わりに言っているだろうと考えると、何かを書く必要もないなと言う感じで。
はてなブログという自分の公開ノートにただ書きなぐるだけ。
自傷行為など要領を得ない行為の意義について
どの様な行為も自分の自由な意志でしたことなら、それは自分自身でその結果を処理するしかないのだろう。
他方、不可抗力で限られた選択肢の中、選ばざるを得なかった行為については、誰かのせいにしてもいい。むしろ、その方が当然だ。納得できないまま強制的にさせられたことなどを「誰のせいにもするな」などと宣う人間の方がおかしいと僕は思う。
自分ではコントロールできない意志でした行為についてはどうだろうか。
自傷、強迫、過食、拒食など、他者からすると要領を得ない行為でも、本人にとっては生命線であったりする。
僕は自傷行為と強迫行為が一番酷かった。
例えば、自傷行為は当初は誰かに心配してほしいという気持ちが少しあった。少しでいいから自分に目を向けてほしいという思いがあった。
けれど、それがだんだんと変化していった。
誰かに心配されたいという気持ちから、自罰、自分を苦しめることで心が楽になる、という動機に変わっていった。
伝わりにくいだろうけど、自傷行為が自分を慰める行為になっていった、という感じ。
「誰も自分のことなど見てはいない、心配もされない、こんな人間は存在していても仕方がない。価値のない人間など死んでしまった方がいい」。
しかし、死ぬことは簡単じゃないから、その代わりとして自分を痛めつける。
自殺の代替行為とも言えるのかなと。
自棄になる気持ちやどうしようもない気持ち、虚しさ、孤独感、他にも自分にとって負担になる感情全てを、消去したい、誤魔化したい、と。
実際、自傷行為の後はすっきりしていた。
血を見て安心するといったことや傷跡に見惚れるといったことではなく、痛みを感じることですっきりする。
様々な感情を自傷行為で上塗りしているかの様な。
と、こんな風に文章に書き起こしても要領を得ない。
それに、これは僕の自傷行為に対する位置づけであって、他人のそれとはまた違ったものであると思う。
だから、自傷行為や上記の行為達の動機を説明しろと言われても、なかなか難しい。
ただ、僕はこれらの行為は「とりあえず生きるのに必要な行為」だと考えている。
なんとなく矛盾しているかもしれないが、生存本能が人間には備わっているから、きっと脳への負担を軽くするために、究極の終わりである死以外の方法として、自傷やそれらの行為を代わりにさせているのではないか?という。
僕は、自傷行為やその他の行為について、否定も肯定もしない。
ただ、必要だと自分だと思うのであればすればいいし、必要がないと思えばやめればいい。
実際、やめたくてもやめられないから困っている、という人の方が多いかもしれない。
緊急避難的にしている行為も、もしかすると将来へつながるか細い糸になるかもしれない。希望は持たせたくないし、僕自身、希望なんて大嫌いだけど。
命をつなぐことということだけを考えれば、それらの行為にもなんらかの意味があるのだろうって。
自傷行為について一つ注意すべき点は、仮にするなら、なるべくなら上腕にしておいたほうがいいということ。
Tシャツで隠せるから。しないに越したことはないけどね。
これは口癖のように言い続けていることだけども。
自傷行為も他のも何が悪いって、そんなことをさせるような人間にした周りが悪い。
「また誰かのせいにしている」と言われるだろうが、実際にそうなのだから仕方ない。
「おかしな行為をしている」という認識があるのなら、「なぜその人間はおかしな行為をしているのか」までを考える必要がある。
大体は、頭がおかしいとか、かまってちゃんだとか、とにかく関わりたくないとして、個人のせいだと決めつけたがる。その方が答えとしては出すのが簡単だし、考える必要がないからね。
けれど、実際には多くの周りの環境が要因となって、それらの行為に及んでいるのだと僕は考えている。
自傷行為をする人としない人がいるのは何故か?
希死念慮を持ち生きている人と、持たずに生きている人がいるのは何故か?
原因があって結果がある。
抱えている問題は人それぞれだ。
問題を抱えていない人もいるだろう。
理解しようとしなくてもいいから、ああそういう存在もいるのか程度に認識してもらえたらいいなと思う。
心無いことを言われて積極的に傷つけられるより、無関心を装ってもらえる方がありがたい。
心に余裕のある人が、心に余裕のない人を傷つけて何になるのか、と。
特にオチはないけど、なんとなく考えたことを書き出してみた。
こんな文章も、長文だから読んでくれたらありがたいし、読まれなくても仕方ないと思う。
それでは。
今週のお題「傘」
毎日何か1つ記事を書こうと思い、お題を借りて書いてみようと思う。
雨が降れば傘をさせばそれでいいが 人の心にさす傘は頼りなく
だから代わりに涙を流すのかな 悲しみにおぼれてしまうその前に
僕が好きなsyrup16gというバンドのラファータという曲の歌詞。
歌い出しであり、僕が好きな歌詞。
一方で、この歌詞の続きには共感できなくて、ほとんど聴かない曲でもある。
小さくてちっぽけな 僕たちは 一人ぼっちにならないように 出来ているね
本当にそうだろうか?辛く苦しいとき、誰かがいて、救ってくれた経験があるからこそ、そういったことが言えるのでは?と思ってしまう。
一方、これまた僕が好きなTHURSDAY'S YOUTHというバンドに「R.I.P.」という曲がある。その一つ。
君は一人じゃないよ なんてね あの人が一人じゃないから言えること
確かにその通りだ。誰かに何かの励ましの言葉をかける際、自分の経験や相手の状態に基づいて言葉に出すことが多いが、大体はよくある言葉で済ますことが多いように思う。
家族の大切さ、両親の大切さなど、それらの想いは、外部から植え付けられるものではなく、自発的に湧き出てくる気持ちだろうから。
それでも、現代社会は機能不全家族というものを見て見ぬふりをして進んでいる。
理解されるようになってきているとはいえ、大多数の人は機能不全家族など知らないかどうでもいいと思っていることだろう。
だから、自分の人生について家族や両親のせいにすると「甘えている、言い訳ばかりだ」だ。
というような、聞き飽きた説教を受ける。
僕から言わせれば「どうせ何も知らない癖に」「知らないのなら放っておいてくれ」と思う。
人から何かを強要されたくない。何より、憎悪している対象について、その人の価値観や経験に基づいた言葉なんて「ラファータ」の歌詞のようなものだ、と。
こんな文章も、僕自身の経験に基づいたものだから、強要はしないし共感されなくても仕方ないとも考えている。
傘のお題から、脱線してしまった。
僕は折りたたみ傘派。
理由は風に強く、壊れにくいから。携帯性の面でも良い。
お題から真正面に物事を書くと、この三行で終わってしまう。
だから、少しでも長い文章が書けるようにと考えた結果。
以上。