くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

生存本能と安楽死

力士20人による救出劇というのを目にしたとき、また死にたい人の邪魔をしたのかと思ったが、飛び降りたが死ねないと悟り、本人が助けを呼んだとのことだった。

 

死にたいのに簡単に死ねない。

苦しみと恐怖の中で生を選ばざるを得なかったというのは理解できる。

誰だって苦しんで死にたくはないだろう。

飛び降りて一瞬の痛みで逝くのと、溺れてもがきながら苦しんで逝くとなったら、その苦しさと恐怖から逃れたいと思うのが人間の本能だろう。

 

確実に死ぬならもっともっと高い場所から飛び降りるしかない。

水面に叩きつけられて死ぬくらいの高さでなければ。

亡くなったであろうフォロワーさんは、どこかの橋から飛び降りてそのまま更新が途絶えた。

 

死ぬ方法はたくさんある。

けれど、確実に死ぬ方法はそれほどない。

もっと言えば、苦しまずに死ぬ方法は極々少数だろう。

誰だって楽に逝きたいはずなのに、苦しんで死ねと言わんばかりに安楽死に反対する。

 

そろそろ命についての考え方をアップデートしてみてはどうだろうか。

国が企業が社会が蔑ろにする命を、尊いもの、大切なもの、貴重なものだと説かれても、なんの実感もわかない。

命を蔑ろにされている人達が、せめて自分の命を楽に終わらせる制度を整えて欲しい。

 

なんていう要望すら相手にされない。

意味がない。

ずっと言い続けても、誰にも通じない。

こんな風に書いてみてもそう。

誹謗中傷と忘却、根付いた病

「誹謗中傷はいけない」という批判で相手の言葉など封殺できるはずもない。
一人の死で長年変わらなかった思考を変えることなど不可能だから。
 
誹謗中傷が起こるたびに死を引用される、自殺者本人がいつまでも浮かばれない。
何をもって浮かばれるかどうかというのはわからんけど。
しかしながら、誹謗中傷が原因の死を簡単に忘れられてしまっても困るから、難しい。
 
それでも、人は感情移入したり、自分がその人の立場になったときのことを考えたりすると、嫌でも怒りや憎悪といった感情が出てくる。
そこで匿名で吐き出せるツールとしてのSNS、特にツイッターは便利なんだろう。
 
以前であれば、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の芸能人専用スレのようなところを荒らしまわるといったことで発散できていたのかもしれないが、もっと手軽で直接相手に届きやすい場所を確保できたから、わざわざそこに行く必要がなくなった。
 
昨晩、インターネットの歴史みたいなことをキャスで独り言の様に話していたのだけど、誹謗中傷や人間の悪意でホームページを潰されるなんていうのは以前からあった。
2002~2003年ころの話だけど、自分が好きで利用していたホームページが荒らしのせいで潰された。きっと、管理人さんも精神的にまいってしまったのだろう。
 
このように、昔のネット利用者はネチケットを守っていたといった言葉は、正しいわけではない。
利用者の悪意がそこにあったとき、今も昔も変わらず人は同じことを繰り返す。
 
今は一人に一台、スマホというネットとつながることができる機械が手元にあり、アカウントも複数持つことができる時代。
そう考えると、落書きを書ける「便所」が簡単で身近に確保できるようになった。
 
最近になってやっと、ネット上での特定の個人への誹謗中傷に対して、誹謗中傷した側へ被害の補償を求める訴訟が起こされる動きが出てきた。
 
最近は書き込みログが残っているだろうから、どれだけ手動でツイートを消そうが、コメントを消そうが、開示請求をされて問題のツイートやコメントを特定し、証拠として突きつければ勝つ見込みがあるのかもしれない。
仮に勝つことができなかったとしても、相手がどのような人間なのかを知ることができるだけでもまだマシだろう。
 
どうしてこのようなことを書き始めたかというと、起きてすぐにあるトレンドをクリックしたら、「誹謗中傷で人が亡くなったことを、もうみんな忘れている」という文章にひっかかったから。
 
さすがに最近あった出来事なのだから忘れてはいないだろう。
ただ、感情的になって簡単に吐き出せる場所に言葉を吐き出しているだけ。
そこに誹謗中傷の善し悪しなど考える余地もなく。
 
人間は、学び成長する生き物だという前提でいる人が多いように見受けられるが、人間など早々に変わることができる存在ではないと個人的には考えている。
 
虐待、いじめ、自殺といった問題がいつまでも繰り返し行われていることを考えれば、そんなことは明らかだろう。
今までにどれだけの子供が虐待死したことを覚えているだろうか?
今までにどれだけの人がいじめを苦に自殺したことを覚えているだろうか?
そもそも見ず知らずの他人の自殺など、どれほどの人間が気に留めているのだろうか?
 
多くの死はまた忘れ去られて、教訓として活かされることはなく、同じことが繰り返される。
誹謗中傷や虐待、いじめ、自殺など他人を追い込む術に長けている日本社会は、国民全体が不治の病に侵されているのだろうな、などと。
そんな自分も病に侵された一人。

自分不要論

自分の代わりは世の中に沢山いて、自分がいなくて困る人はいないし、滞る出来事もない。

にもかかわらず、ただ生きていてこんな風に誰が見ているともしれない場所で文章を書いている。

自分が不要であるということを否定してもらいたいがために必死になって、ない頭で文章を打ち込んで。

 

隣の芝生は青いと言われるけれど、ネット上で接する人達は誰かしらに求められていたり、居場所があったり(仕事場、作業所など嫌な場所であってもとりあえず)。

何かしらの役割をこなしているからこそ、必要な人になっているのかもしれない。

 

当たり前のことしか書けない。

便所の落書きと大してそう変わりはない。

なんとなくそれらしいことを書いているようだけど、結局、中身もない。

どこかで聞きかじった言葉を拾って文章に再構築してこんな感じ。

文才なんてあるはずもなく、伝えたいことも誰かが代わりに伝えてくれている。

そうなるとやっぱり自分は必要がない、と。

そんなことを文章として残す。

 

無力感も虚無感も全部何もかもそういう根っこから湧き出てくるものなんだろう。

グーグルアドセンス

以前のブログで審査が通り、そのブログURLを変更したらまた再審査となってしまった。

仕組み自体をよく調べもせずに変更してしまったことが問題かもしれない。

ちょっとだけあった収益はどうなるんだろうか。

やっぱりなかったことになるのか。

せっかく通った審査も始めからやり直しみたいだし、どうすればいいのやら。

 

問い合わせもコミュニティという形でしか問い合わせることができないようだから、個人的なことを聞くのも気が引ける。

うまくいかないことばかりだ。

今日

特に何もない一日だった。

これが日常。やっぱり日常でしかない。

だからなんだというわけではないけれど、ただただ日常。

はてなブログを始めてはみたけれど、実際、どの様になっていくのかはわからない。

noteを以前に利用していたが、運営が余りにもやる気がなくてやめてしまった。

問い合わせの返信について、2週間は我慢したけどさすがにそれ以上は無理だったし、そういった対応に見切りをつけた。

 

話が飛んだ。

今日は特に変わり映えのない日常。

それでいいんだけど、物足りないし満たされない。

そんなもんは望んじゃいけないからやめておく。

やめておくと言いながら、どっか期待してしまったり。

 

ほんと、くだらない人間だ。

独り言

何を考えていたのか。
自己反省と自分勝手な想い。
リアルタイムでいろんなことを書くと、整理されていない感情がそのまま書き出されてしまうから、
こちらの方に書こうと思う。

今更何をって感じのことがいっぱいあって、希望も期待もいつも勝手に出てきて、絶望して諦めに変わる。

自分さえよければそれでいい。
そんな考えが根底にあるからだろう。
人間に向いていないし、人と関わることにも向いていない。
それでいて、孤独が怖い、寂しい、そんなことばかりで。

誰にとっても邪魔になる存在だと自覚しつつ、邪魔になるとわかっていて入り込もうとしたりして。
そんなことはもう止める。
絶対にもうしない。

人それぞれに人生があり、その人生の中に自分を組み込むことはその人達にとっての邪魔にしかならない。
そんなことを平然と行ってきた。
もう止める。

今までの罪は申し訳なかったとしか言えない。
これからは決して罪を犯さない様に。それだけ。
死にたいけど死にきれなくて、生きるにも苦しい。
孤独感をわめいて誰かにかまってもらおうだとか、そういう醜態ももうおしまい。

恥ずかしい自分。黒歴史の自分。全て自分だった。
これからは下心なんて持たず、人と接していくか、極力、人とは接しないようにしていきたい。
決意表明というわけではないが、書いておこうと思った。

死にたい、苦しい、つらい、寂しい、孤独、そんなキーワードしか書けないツイッターも意味がなくなってきたように思えてきて。
それなら、自分の居場所であるこちらに書いておいた方がいいと思った。

タイトル

どんな言葉も何となく的外れで、もっと踏み込めば傷をつけていたりして、それならいっそ口を閉じていた方がいいのではないかと。

 

人と比べることの無意味さは十分に分かってはいるが、それを実践することができず。
脳内は重要と思われるものはほとんど入っていなくて、あるのは使い古された馴染み深い思考。
そこから導き出される結論にいつも惑わされ、思考停止もままならず、苦しみが重なるばかり。

 

「自分など必要ない」
なんて言葉にすれば、ありがたいことにそれを否定してくれる人達がいる。
にもかかわらずこの考え方は強固で、いつでもどこかで自分の存在はこの世には必要ないのだと思ってる。
子供の頃にかけられた暗示は脳内に深く突き刺さり、どれだけの人がそれを抜こうと努力してくれても抜くことができない。
自分自身がその暗示を握りしめて離さないでいるからだと思う。

 

「もう手遅れだ」
これもいつも思うこと。
変わりたいと願ってもやはり変われずにいて、「ああ僕はもうこんな人間として完成してしまったんだ」と諦める。
根気強くなくて諦めが早い。向上心もない。僕には何もない。

 

「自分を否定することは、自分を肯定してくれている人を否定していることになるんだよ」
ってことも言われてきた。わかっている。
ごめんなさい、すみません、申し訳ありません。
そんなことを思いながら、いつも自分を否定している。

 

自分の気持ちなんて既に諸々のバンドが歌ってくれているから書くまでもないだろう。
みんな同じようなことを歌っているのだから、歳を重ねるにつれて増えていく葛藤というものも、大体はみんな同じように持っているんだろう。

 

僕がわからないことを歌っている人達が多いというのは、僕自身が人並みに経験を積んでこなかった証拠なんだろう。
そんな現実を目の当たりにしたくないから、僕は聴くバンドを絞りに絞って限られた曲しか聴かない。

 

自分の世界は狭い。
そんな奴が「視野を広くも持とう」なんてどの口が言ってんだっていつも思う。

 

「未だ来ずと書くから未来」って、学校の先生が言っていた。
「だから俺は未来という言葉が嫌いなんだ」とも。
「待っていても未だに来ない。そんな表現が嫌いだ」って。

『将来なら「将に来たらんとする」だからいいけどな』ってことも言ってた。

時間は不可逆で進んで行くから、誰が何を言っても言わなくてもしてもしなくても勝手に流れていく。
だから何にしても言葉遊び。

 

先に描けるものに明るさや希望、期待、幸福みたいなものを見出せずにずっといて、だから僕は未来だろうが将来だろうがそんな好きではなくて。
これも長年、自分の脳内を支配してきたものだから簡単に変えることができずにいる。
頑張って明るい何かを見ようとしても上手くいかなくて、結局、見慣れた何もない真っ暗な方を見ていたりする。

 

こんな奴、死んでしまった方が絶対に良い。
誰かに言われなくてもそう思ってる。

 

昔、どこかで見た文章を思い出した。
「相手を幸せにするために自分の想いを犠牲にする」
「告白してくれて、愛情を示してくれても、自分が相手と付き合っては相手が幸せにならないだろうから、自分がどれだけ相手のことを想っていても相手のことは受け入れない」と。

 

僕はこのような人の様に強くないから、人の気持ちや愛情を求めたり受け止めてしまったりする。
それが正解なのかはわからない。
もし間違いだとしたら?そんな資格がなかったとしたら?そんな不安がいつもある。
身の丈に合った幸せで自重しておかなければいけないのでは?と。

 

この世の中、生産性がない人間は何の価値もないと見做される。
個人の状態も都合も環境もお構いなしに、一括りにして「この人間は私たちの世の中には不要だ」って。
「働けないなら死んでくれ」「私たちが苦しんで生産したお金を勝手に使って生活するな」「自己責任」

 

心を強く持てている時はそんな言葉を真に受けはしないんだけど、心が弱っているとそういった言葉を真に受けて死にたくなる。
実際に死んでやろうかとも思う。
「どうせできないくせに」って。
してやろうか。

 

「社会に文句を言う前に、自分を何とかしろ」
これも常套句。
どうにもできないからこんな風になってる。
弱音を吐けばもっと強い言葉を浴びせられる。

 

色々考えて、ああやっぱ死ぬしかないのかって。
未だ定まらない時も、身の丈に合わない幸せも、全部手放さなきゃいけないのかって。
それが社会から僕に望まれていることなのかって。

 

僕が死んでも連絡が取れなくなるだけできっとそのまま風化していくのみ。
こんな文章もネット上での存在も時間と共に薄れて消えていく。
始めから存在していないのと一緒。

 

何を書きたいのかも伝えたいのかもわからないまま、今はただ辛くて文章を書いている。
きっと誰かがこれを見てくれるんだろう。
時間がかかっただろう。
何の落ちもなくて残念だったかもしれない。
なんてどうでもいいか。
文章打つ元気はあるんだから大丈夫だろう。
やっぱどうでもいいか。