生存本能と安楽死
力士20人による救出劇というのを目にしたとき、また死にたい人の邪魔をしたのかと思ったが、飛び降りたが死ねないと悟り、本人が助けを呼んだとのことだった。
死にたいのに簡単に死ねない。
苦しみと恐怖の中で生を選ばざるを得なかったというのは理解できる。
誰だって苦しんで死にたくはないだろう。
飛び降りて一瞬の痛みで逝くのと、溺れてもがきながら苦しんで逝くとなったら、その苦しさと恐怖から逃れたいと思うのが人間の本能だろう。
確実に死ぬならもっともっと高い場所から飛び降りるしかない。
水面に叩きつけられて死ぬくらいの高さでなければ。
亡くなったであろうフォロワーさんは、どこかの橋から飛び降りてそのまま更新が途絶えた。
死ぬ方法はたくさんある。
けれど、確実に死ぬ方法はそれほどない。
もっと言えば、苦しまずに死ぬ方法は極々少数だろう。
誰だって楽に逝きたいはずなのに、苦しんで死ねと言わんばかりに安楽死に反対する。
そろそろ命についての考え方をアップデートしてみてはどうだろうか。
国が企業が社会が蔑ろにする命を、尊いもの、大切なもの、貴重なものだと説かれても、なんの実感もわかない。
命を蔑ろにされている人達が、せめて自分の命を楽に終わらせる制度を整えて欲しい。
なんていう要望すら相手にされない。
意味がない。
ずっと言い続けても、誰にも通じない。
こんな風に書いてみてもそう。
誹謗中傷と忘却、根付いた病
自分不要論
自分の代わりは世の中に沢山いて、自分がいなくて困る人はいないし、滞る出来事もない。
にもかかわらず、ただ生きていてこんな風に誰が見ているともしれない場所で文章を書いている。
自分が不要であるということを否定してもらいたいがために必死になって、ない頭で文章を打ち込んで。
隣の芝生は青いと言われるけれど、ネット上で接する人達は誰かしらに求められていたり、居場所があったり(仕事場、作業所など嫌な場所であってもとりあえず)。
何かしらの役割をこなしているからこそ、必要な人になっているのかもしれない。
当たり前のことしか書けない。
便所の落書きと大してそう変わりはない。
なんとなくそれらしいことを書いているようだけど、結局、中身もない。
どこかで聞きかじった言葉を拾って文章に再構築してこんな感じ。
文才なんてあるはずもなく、伝えたいことも誰かが代わりに伝えてくれている。
そうなるとやっぱり自分は必要がない、と。
そんなことを文章として残す。
無力感も虚無感も全部何もかもそういう根っこから湧き出てくるものなんだろう。
グーグルアドセンス
以前のブログで審査が通り、そのブログURLを変更したらまた再審査となってしまった。
仕組み自体をよく調べもせずに変更してしまったことが問題かもしれない。
ちょっとだけあった収益はどうなるんだろうか。
やっぱりなかったことになるのか。
せっかく通った審査も始めからやり直しみたいだし、どうすればいいのやら。
問い合わせもコミュニティという形でしか問い合わせることができないようだから、個人的なことを聞くのも気が引ける。
うまくいかないことばかりだ。
今日
特に何もない一日だった。
これが日常。やっぱり日常でしかない。
だからなんだというわけではないけれど、ただただ日常。
はてなブログを始めてはみたけれど、実際、どの様になっていくのかはわからない。
noteを以前に利用していたが、運営が余りにもやる気がなくてやめてしまった。
問い合わせの返信について、2週間は我慢したけどさすがにそれ以上は無理だったし、そういった対応に見切りをつけた。
話が飛んだ。
今日は特に変わり映えのない日常。
それでいいんだけど、物足りないし満たされない。
そんなもんは望んじゃいけないからやめておく。
やめておくと言いながら、どっか期待してしまったり。
ほんと、くだらない人間だ。
独り言
タイトル
『将来なら「将に来たらんとする」だからいいけどな』ってことも言ってた。