「愛が地球を救うなんて 誰が言う」
「笑っちまうよな 絶望の底で」
『惑星メランコリー』より。
今年も始まりました。
偽善、否、慈善番組。
僕は泣かせる作為(泣かせようとする)ある番組構成、特にその作為が障害者を利用したものであるため、当該番組が嫌いだ。
よって見ない・・・と決めているのだが、親がこの手の番組が好きなため、テレビがその番組になっている。
泣かせるために障害者を利用する、と僕には映るんだ。
乙武さんのツイッターを見ていればよくわかるが、障害者は人に涙を与えるために存在しているのではない、と僕は思う。
まして、作られた感動なんて馬鹿げている。
予定調和。
この番組は感動という結末が予め定められているんだ。
これを作られた感動、作為ある感動と言わずして何と言う?
嫌なら見るな、と言われるのだろう。
よって、僕は見ない。
予定調和なんてくだらない。
ああ、テレビってのは予定調和だった。
だから僕はテレビを見なくなったんだな。
その予定調和を打破する力、自浄能力など今のテレビ局を含むメディアに望めるはずもない。
しかしながら、見る側も大して変わってもいない。
テレビ局の報道を鵜呑みにしてそれに迎合する者がほとんどの様に感じられる。
それは、前回の衆議院議員選挙を見たら明らかだろう。
現与党のユートピア・マニフェストを信じ、政権交代が成された。
投票行動に影響を与えたのは、明らかにメディアの報道の所為だろう。
それを真に受けて信じた結果が今なのだが。
よって、見る側も何も変わってはいない。
ただ、テレビの報道内容に疑問を持っていた人々は以前からいただろう。
例えば韓国のごり押し報道に疑問を持っていた人が、ツイッターでそれを表した。
しかしながらその数は、報道を鵜呑みにする人々よりはるかに少ないと想像する。
あくまで主流はテレビの報道を真に受ける層なんだ。
これらの層が存在する限り、テレビやメディアの自浄作用などありえない。
それは、テレビ局、メディアなどが彼らの報道を真に受ける層の存在の上にあぐらをかいているからだ。
受け手である人々は、あぐらをかかれていることに気が付いているのだろうか?
どうでも良いと思っているのかもな。
テレビは娯楽、暇つぶし、その程度でかまわないと。
僕の言葉も何の意味も無い。
ただの感想。
障害者を利用して、見ている側が笑顔になるテレビでも作ってみなよ。
そうすりゃ僕も見てみるよ。
くだらない、障害者を利用して予定調和の感動番組なんぞいらんのだ。