くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

(No Title)

『僕は今連休中であるが、もしそれが毎日であった場合、滅茶苦茶になるであろう
―だからニートの生活、ただ遊んでネットで誹謗中傷して楽しんでる人たちの思考が理解できない。』

以上、引用しました。

僕は逆だった。
僕は横になっていられるのなら、いつまでも横になっていたいし、ただ遊んでネットで誹謗中傷はしないけど、観覧して。そんな生活は夢のよう。


無茶苦茶になるという思考は、多分、常人だからなのだろうな、と。
なぜなら、社会一般的・常識的にも、生産性の無い生活を送ることについては大多数の人間が否定的な感覚を表すだろうからね。
大多数の人間の意見≒常識と僕は見ているけれど、違うのかな?

先に書いておけば、僕は、人は何かをしていなくても、生きているそれだけで十分だと思うよ。
暴論だけどね。そもそもそんな社会状態では、社会制度が立ち行かなくなる。
だから、僕の思うようにはならないんだ。だから、僕の意見は少数派であり、許容されないものなんだよ。



人は、何かをしていなければならないらしい。
その「何か」について、自分はよくわからないけれど、人は「何か」をしていることで初めて価値が生まれるらしい。

裏を返せば、生産性の無い人間に価値は無いらしい。
これには僕も同意する。
理由は、僕自身がそうだから。
僕は、生産性の無い生活を送る毎日。

確かに、最近になってやっと僕はラベル貼りという作業を手に入れた。
そうして、生産的な生活、つまり1つ「何か」をしている生活が生まれた。

けれど、今の僕についてラベル貼りは、その「何か」ではないようなんだ。
僕にとっての「何か」というのは「就職活動」のことを指しているらしい。
もっと具体的に言えば、「就職活動をして内定を得ること」が「何か」らしい。

それによって、僕に価値が生まれ、世間一般・両親・先生等は納得するみたい。


始めの方でも書いたけれど、僕は何かをしていようがいまいが、そこで生きているだけで良いんだと思うし、周囲の人々にそうと言って欲しい。
もっといえば、そういった生き方について否定をしないで欲しい。

人には何もできないときがある。
それは永久に続く時、かもしれないし、突如として動き出す時、かもしれない。

何もできないことに関しては、怠慢や甘え、病気、種々の理由は考えられるだろう。
そういった、様々な可能性を全て排除したかの如く、人それぞれをの生き方を一緒くたにしないで欲しい。

この人にはこの人の生き方がある。
それで良いのではないのかな?
何故、これはいけない、これはいい、と他人に生き方について指摘されなければならないのか、僕には理解できない。

例えば、事理弁識能力の無い被成年後見人(痴呆症の方等)については、後見人によるサポートは必要だろうが、怠慢、甘え、病気、他の理由があるにしても「何もしていない生き方」というのも、1つの生き方だろうと僕は思うよ。

但し、僕が現状を全て捨て去って、また歩みを止めてしまったとして、誰か僕を肯定するかな?
するわけがないよね。
社会一般・世間はただのひきこもり、ニートと蔑み、事情も知らずにただ僕を批難するんだろうなぁ。


多数派の論理。
僕はいつもそう思う。
当然、歴史的に見ても、イデオロギーの対立等、人々は様々な局面で対立をしてきたけども、最終的に勝つのは数の多さ。
これは民主主義に基づいた、数の暴力とも言うことができそうかな。


だけど、僕の考えじゃ社会は終わってしまうね。
何もしない人ばかりでは、当然だけど各種社会保障制度は切迫し、破綻に追い込まれる。
大きな政府といった言葉があるけれど、大きさにも限度がある。

簡単に言えば受け皿か。
何もできない人、ニートとすると、それの受け皿にも限界がある。
だから、社会は、必死こいてニートや社会不適合者をどうにか「社会復帰」させ、受け皿に受け止められる側を減らし、受け皿そのものを大きくする、あるいは受け皿をより頑丈にしようとする。

そのための世論形成や思考が、マイノリティへの否定的な見方に繋がっているのだと僕は思う。
うつは甘え、甘えた言葉を言うのはゆとり教育のせい。
それらだって、結局は上記の事柄と同じじゃないか、と。


マイノリティはいつでも隅っこに追いやられる。
どんな理由があったとしても、それすら耳を貸す人がいない。
いたとしても、それもまた少数でどうにもならない。
これは実際に体験してきたことだし、今も感じていること。

それは、社会を安定させるためなのだろうけど、社会を安定させる為に少数を犠牲にするという考え方が、僕は嫌いなんだよ。

ノーマライゼーションなんて言葉があるけれど、口ばかりじゃないか。
障害者はどこまでいってもマイノリティであり、それを理由に迫害される。
強者は言う。「病を免罪符にして羨ましい!」と。
ほとんどの障害者は病を免罪符などにはしたくないだろう。
けれど、免罪符代わりにそれを使って何が悪いのだ?
そもそも論で、免罪符を使わずに生活することのできる社会こそが、ノーマライゼーションなのではないのか?

ま、ユートピアだね。
どうでもいいや。
どうせ実現できないのだから、無駄だろうし。


そうだ、ニートに関してはどうなんだろうね。
引用元の文章でもあったのだけれど、理由があるのなら、それはニートとは呼べないのではないかな、と。
甘いかな。
僕が近時、ニートとなる可能性があるから、その予防線を張っているのかも。
「僕は○○だからニートじゃない」って。

何かの理由。
ここでも「何か」の理由が必要か。
そうして、その「何か」についても、ある人にとっては免罪符と見られるのだろう。
面倒だなぁ。

そもそも、僕もニートを見下しているんだね。
なりたくないという願望があるから、僕は見下しているんだ。
人を見下したくないと常々思ってきてはいるけれど、知らぬ間に見下していた。

けれど、さっきも書いたように近々目線の合う日が来るだろう。
僕に求められた「何か」を達成できないまま。
そのとき、僕は何を思い、何を書くのかなぁ。

いつものように僕の立場の言い訳を書くのかな。


話が飛ぶんだけど、僕は一体、何なんだろうね。
神経症らしいから病気ではない。
うーん、人格障害か。
睡眠障害なども神経症の1つみたいだし。
だから森田療法を薦めるのかな、あの薬売りは。

僕は最近になって気が付いた。
主治医と会うことと、ゼミの指導教員に会うことが同じ感覚だということを。
話し終えて残る気持ちは、わかってもらえない、ということ。
それを僕はカミソリで刻むわけだけど。

自傷防止用セロクエルは1度だけ使ったよ。
確かに効くね。眠ってしまえば人は動けないもん。
起きた後もダルさが取れなくて。
流石だね。
だからもう飲まない。
イライラは晴れなかったから。

今日も長くなったな。
そうだった。今日は面接をしてきたんだった。
と、とってつけたように書くけど、うーん、ダメかな。
多分ダメだよ。
自己PRのときに、どもっちゃったもん。
僕の喉、おかしいなぁ。
脳も、用意してきた言葉達を忘れる始末。
僕のは酷い脳だ。

明日は通院日。
その後にラベル貼りに行こうっと。
6時間弱で15ケースクリアできるかな。
一応、それを目安に頑張ろう。

そいじゃ、また。