くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

( ゚Д゚)_σ異議なし!!

本当にながーい独り言で、しかも法に関する素人意見なので興味のある方だけどうぞ。

記事引用しました。
とある社会不適合者さん
クスリとマナブと裁判員
さて、皆さんは逆転裁判逆転検事というゲームをプレイしたことがあるでしょうか?

これらのゲームでは、主人公が、証拠や証人の証言の矛盾を指摘して、容疑のかかった人間を救い、真犯人を探す、といった感じのゲームです。

このゲームの中でのキーワードは、「決定的な証拠」です。

例を挙げると「押尾学被告が被害者にMDMAを飲ませ、被害者はそれによって命を落とした」という事件があったとします。これを、「本当にあったこと」として論証するのが「検察」の仕事です。


その論証に際して、最も強力な証拠があります。
最近、でもないですが足利事件ってありましたよね。
そうです「自白」です。
キーワードの話に戻れば、決定的な証拠というのは「自白」のように言い逃れすることのできない証拠のことなのかもしれません。


裁判において、「自白は証拠の王様」などと表現される場合があります。
なぜなら、被告人自身が犯行を自ら認めるという、最もわかりやすい証拠だからです。
そういったことから、昔は特に(今もか?)警察官は自白を強要し、自白による不公平で不適正な裁判が行われたのだと思います。


逆転裁判逆転検事、共に共通しているのは、事件の構図を仮定し描いたとしても、それを裏付ける証拠がなければ「絵に描いた餅」ということになる点です。
つまり、「証拠を出さなければその話は妄想に過ぎない」というわけです。
そのため、これらのゲームでは様々な証拠が出てきて、それを駆使して真犯人を追い詰めて行きます。


ただ、このゲームには大きな矛盾があります。
ゲームでは矛盾を見つけた時は( ゚Д゚)_σ異議あり!!と言うのですが、まさにそうです。

何か?
それは、このゲームでは法廷を「法廷とは真実を明らかにする場」といっていますが、それは違います。
法廷とは「事実を認定する場」なのです。


真実と事実、違いはどう説明したらよいのか。

真実とは、当事者にしかわからないことです。
事実は、例えば、殺人の場合において「被告人が被害者の血液が付着したナイフを所持していたこと」など客観的に認められるもの、といえばいいのでしょうか。


話を戻します。
今回の押尾学被告の事件の裁判においては「保護責任者遺棄罪」の事実だけが認定されました。
検察側は「保護責任者遺棄致死罪」の適用を求めていたようですが、「致死」を証明するだけの「決定的な証拠」がなく、裁判所・裁判員もその事実を認定できなかったのです。


それに、MDMAの入手後の使用についても、結局は推測による事実認定といわざるを得ません。
なぜなら、押尾学被告にMDMAを渡したとされる人間Aは「錠剤のMDMAを渡した」とはっきりと供述しました。

それに対する検察の主張および裁判所・裁判員の判断はこうです。
「もしAが渡した錠剤によって被害者が亡くなったとすれば、渡した人間Aも新たな罰を受けることになるため、そんな自己に不利な証言をわざわざ嘘をついてまですることはない」


一般論からすればそうでしょう。
ただ、もしこれが、「個人的にAが押尾学被告に恨みを抱いており、それを公にしないまま上記の供述をした」場合はどうでしょう?
一般論が崩れます。
と、ここまでは滅茶苦茶乱暴な話の進め方をしました。


ただ実際は、今回の場合では、押尾学被告が当初から虚偽の供述をしている点などからして、押尾学被告とAを天秤にかけた場合、Aの供述に信用が足りると判断されたために、裁判所はAの供述を基に事実認定したとしています。


ここまで書いてきて、押尾学被告を弁護するかのようなことになっていますが、真実は誰にもわかりません。

例えば、押尾学被告が被害者に行ったとされる甦生措置、実際にあったのでしょうか?
(ここで言っているのは、甦生措置を行ったことによって被害者が助かる見込みがあったかどうか、ではなくて、実際に甦生措置が行われたかどうか、を聞いています)

これは押尾学被告以外に答えようがないですよね。
そのため、真実は絶対に当事者にしかわからないんです。



長くなりましたが、裁判所は真実を究明する場ではありません。
あくまで、事件の「事実を認定する場」です。

裁判所は被害者の味方でも加害者の味方でもない。
法の番人として、三権分立のひとつとして、憲法下で公平で公正な裁判を行うのがその役割です。


そこに、新たに裁判員が加わりました。
真実を追究するのではなく、事実を判断するのであれば、法律なんてしらなくともできるのではないのかな、と思いました。

裁判員も感情を持っているため、事実を認めない等があるかもしれませんが、そのときは3名の裁判官による抑止が可能であるため、その点、心配はないのではないかと思っています。


自分がかみつきくんAさんの記事をリンクした理由は、Aさんのように客観的に事実を見て欲しいと思ったからです。

しつこいようですが、真実は絶対にわかりません。
それなのに、あたかも真実を知っているかのように雄弁に語り、また、「被害者のことも考えず、加害者のことばかりを考えている」などと言って、「その量刑は甘い」等の意見を言う人がいます。


そういった方々は、客観性に欠けています。
ここからはAさんの記事のままになってしまいますが、量刑が軽いと考えるのであれば、まずは法律を改正すればいい。刑法はちょくちょく変わるので、そちらに論点を移せばいい。
ただ、感情だけで動くのなら裁判所の必要はなくなる。

さっきも書いたように裁判所は誰の味方でもありません。
被害者を保護すると共に、加害者も保護しなければならないのです。

足利事件が良い例ではないでしょうか。
間違いがあれば、法の番人でもそれを認め謝罪をする。
これは、加害者保護がなければありえないことです。
ただ、誤認逮捕、そして死刑判決の誤審の時点で加害者保護は放棄されてしまったのかもしれませんが。


裁判所は冷たいわけではないと自分は思っています。
裁判所は、提出された証拠に基づいて、それによって事実を認定し、判決を下します。
その過程には、全くとは言いませんが感情が入る余地はあると思っているためです。

また、憲法は、自力救済を否定しています。
自力救済とは、簡単に言えばあだ討ちのことですね。

あだ討ちの代わりとして、国家に救済を求める公法(憲法・刑法)に基づく裁判と、自ら証拠を提出して相手方を追い詰め損害賠償等を得る私法(民法等)に基づいた裁判があります。
どちらも裁判所を通して、裁判を行います。


自分のスタンスは、死刑は存続すべきで、その死刑を適用する罪の範囲を広げるべきであるという考えでいます。
自分は、犯罪者の更生可能性を一部否定します。
例えば強姦罪。レイプです。
これほど人間の尊厳を傷つける犯罪であるにもかかわらず、死刑が適用されない。
また再犯率も高く、常習性がある犯罪であるのに。
もし、死刑が適用できないとするならば、それに変わる措置を講ずるべきであるにも関わらず、なんらそのようなものは聞こえてきません。

先程、感情を入れてはいけないと言ったのと矛盾しますね。
でも、これは立法での話です。
つまり、法律を作るときの話です。

法律は後追いとよく言われます。
犯罪が起きてから、法律が作られる。
自動車運転過失致死傷罪が例として挙げられますね。

この立法は、凄惨な事件をきっかけに作られた、まさに感情によって作られた法律であると自分は考えています。

よって、感情による立法はその内容いかんでは許容されるべきものであると、自分は考えています。
そのため、強姦罪には死刑、という法律改正を望みます。

って、かなり脱線してしまいましたが、自分は、立法では感情が入り込む余地があり、司法では極力感情が入り込む余地を残してはならない、と考えています。


蛇足ですが、死刑廃止論者には、「刑罰は更生させるためにあるものなのだから、死刑はその根本を否定するものである」と言う人がいます。
確かに、更生させるのが刑罰の目的なのかもしれません。確か、そういった趣旨のことを聞いたことがあります。
しかし、罰を忘れてはいませんか?

自ら犯した罪、その自らを正すことを否定はしません。
ただ、自ら犯した罪に対する罰はどこにいったのでしょう?
罪には罰を。そんなの当たり前です。
残忍な犯罪者に、死刑を廃止して悔い改める時間を長時間与えることが、本当に罰になるんですか?
犯罪者はその牙を隠しているだけかもしれませんよ。

ま、真実は誰も知りえませんが。
自分はあくまで死刑制度に賛成の立場です。
生命という人間の根源を失わせるような犯罪を犯しておいて、その対になるものが長時間の拘束なんていうのはつりあわないと思います。って、これは感情論か。

ただ、誤審の可能性に関しては、素直に認めなければなりません。
一度下された間違った審判により、死刑が執行されてしまった後では、もう取り返しがつかないからです。
そのため、どうしたら誤審を減らすことができるのかが、誤審による死刑を無くすことに繋がるのだと思います。
よって、取調べの撮影等、誤審の可能性を減らす取り組みも必要なのでしょう。


って朝から何書いてんだあああああああああああああ
雨も降ってきたし、もう病院へはバスで行くしかないのかなぁ。

最後に、逆転検事2は楽しみだ!
できれば、あのやさぐれたなるほどくんとの対決も見てみたい。
ミツルギ検事にはやっぱりなるほどくんだろjk。