くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

無題

努力なんて誰も見てないさ。
人が見ているのは、その人の表面だけ。
過程をすっ飛ばして、結果だけを見られるから、苦しいんだ。
そうなれば、結果が出ないことに対して、頑張らないで文句を言うことも、頑張って文句を言うことも一緒だな。
人はただ、結果が出なかったことしか見ないわけだから。

リア充と非リア充の差別化・区別化、それ自体無意味なのさ。
リア充の苦しみは、非リア充のそれに比べて小さなもの、とする見解があるが、それは違うと自分は思う。
人の心は多様だ。
感じ方も違う。

電車に乗ることに悩み苦しむ人もいれば、玄関から出ることに悩み苦しむ人もいる。
ともすれば、起きてベッドから出ることすら苦しい人もいる。
一方で、友人からメールの返信が来なくて苦しんでいる人もいれば、恋人と喧嘩をして悩んでいる人もいる。


これら全て、大小の差はあるんだろうか?
自分は無いように思う。
なぜなら、これらは人それぞれに応じた苦しみや悩みであるから。

「事件に大きさ小ささは無い」と、青島が言っていたけど、そういうことかな。
悩み、苦しみという事実はそれを感じた当事者にしか知りえない。
いくら客観としてそれを見たとしても、悩み、苦しみは主観を通してでしか理解できないんだ。

だから、客観で「その悩みは大したものではない」「それは大きな悩みだ」などと判断はできないように、自分は思う。

電車に乗ることができない人を馬鹿にできるだろうか?
メールを心待ちにしている人を馬鹿にできるだろうか?

繰り返しになるけど、そういうこと。

なんて、「どんな相手に対しても理解がありますよ」っていう自分のこういった文章が、八方美人という証明なんだろうなと思った。