くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

思いやりの衝突

お互い「相手を傷つけないように」と思いやり合ったら、結果として「お互いに苦しくなっていた」ということがあったりする。


自分の言葉が相手を傷つけたのではないか?苦しめたのではないか?邪魔なのではないか?

自分の存在など無ければ、こんなことは起こり得なかったのではないか?こんな気持ちにはならなかったのではないか?


何でなんだろうな。
「傷つくこと」自体は、自分自身がそう考えているだけで、相手がどうかなんてわからない。
本当に傷ついているかもしれない。


けれど、僕の場合は信頼している相手の言葉で傷つくことは無いと言っていい。
そんな心の広い人間いるのかよ、と突っ込まれるだろうが、僕は実際そうだから。

それよりも「このような人間を相手にしてくれること自体、とてもありがたいことです」と切り返したい気分になる。
一方で、「僕みたいな人間が、あなたにこのような言葉を吐いてしまい傷つけたかもしれません。本当に申し訳ありません」なんて想いでいる。


結論を自己完結して、相手に傷ついたかどうかの確認(相手の真意はわかるはずがないけど)をせずにいてしまう。
結局、自分が悪いのだ、と。
自分こそが害悪で、自分に触れさえしなければ相手は傷つくことも無かったろうに、と。


僕の場合、自分を責めれば許されると思っているからだろう。
「自分に落ち度があることを自覚している」という事実を周囲にアピールして、反省しているように見せる。
よって卑怯者なんだ。


僕は、言われた相手によって、その言葉への反応を変える。

信頼している人からの言葉は、どんな言葉であっても受け止める。
それは、僕の共依存という特質によるものだと思う。
相手の言葉を盲目的に信じ、従う。
これは、境界性人格障害者の「相手を理想化する」という特徴にも由来するものなのかもしれない。

他方、どうでもいい〜顔見知り程度の相手からの言葉は、言葉の種類によって、スルーするか反応するかを決める。
ほとんどスルーという選択肢を採ることが多くなったように思うけど。


何が言いたいか。
僕が誰かの言動で傷つくことはもう無い。
今までが今までだったから。


だから、僕に気を遣って、遣い過ぎて、言葉を考えて考え過ぎて、自分を苦しめるようなことはしなくても良い。

また、力になる、ならないなんて、僕にとってはどうでもいいんだ。
繋がっているかどうか、が重要であってそこに救いや援助を求めるなんてことはしない。
結果として、救われた気分にはなるけど、救われたくて人と接しているわけではないから。
よって、自分は無力だとか、そんなことを考える必要もない。

そもそも、僕の様な人間に触れようだなんてすること自体が奇異なことなのだから。


何度も書いておくならば、僕は汚く、頭のおかしい気違いだ。
将来なんて見通しなんて何も立ってなくて、今ですら日々をただ無感情を心掛けて生活している。

その中で、このように感情を表現する場やツイッター、何よりメールで僕は救われている。

繰り返し繰り返し、僕は言動で傷つくことは無い。
自己嫌悪に陥ったのなら確認すればいい。
僕のように自己完結して相手の感情を確認せずに、「相手が傷ついたんだ」と決めつけることが一番良くないのではないのかな、と思う。


なんて、自分のことしか説明できない人間だから、面倒くさいんだろう。
って予想もきっと決めつけなのかな。


悲しいこと、辛いこと、嫌なこと、ネガティヴなことしか僕は書かない。
楽しいことや明るいことが見たいのなら、もっと良いブログがたくさんあるはず。そこを見れば良い。
僕はここで、自分の思考や感情を書き連ねるだけ。


読み手のことなんて何にも考えないブログ主。
僕。

身体も脳内も腐敗してる。
薬で形状を保っている馬鹿な人間。
それも僕。

人身事故を起こして電車をストップさせてやりたいなんてことを、平気で書くのも僕。
僕の一つ一つの言葉に気を揉む必要はないんだ。
「はいはい、いつものことだねー」なんて感覚でいたら良いんだ。

その方がきっと疲れないはず。

僕はまともな人間じゃないから。
僕はまともな人間じゃないから。
僕はまともな人間じゃないから。

大事なことだから、ね。


予防線っと。