くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

自分は僕と俺。

うっひゃー
今日、指導教員と面談をしてきた。
特に何もなかった。
俺の体調を考慮してか、キツイことは言われなかった。

今、内定が決まっていない現状について、俺のせいではなく環境が悪すぎるという見解を示してくれた。
それだけで、少し楽にはなった。
本音は別のところにあるのかもしれないけど、それでも言葉として表明してくれたことに自分は意味を見出した。
しかしながら、就職支援課はどうなのかな。
どう思っているんだろう?
わからない。


昨日、何かすげぇ変なことを書いていた。
とても抽象的で。意図的にだったんですけど。


自分の中には、この文章を書いている「俺」がいます。
また、その「俺」が「抑制」している「僕」というのがいます。

自分=「俺」+「僕」って感じですね。

「僕」の特徴として、「境界例」という言葉をググって頂けたらわかるかもしれませんが、その「境界例」の内容に含まれている人格障害の多くを持っています。

それを自覚し、「僕」の人格障害を表に出さないようにするために「俺」がいるわけです。
そのため、繰り返しになりますが「俺」=「抑制する側」ということになります。

これまた繰り返しになりますが、この文章を書いている人間は「俺」です。
当然、「僕」と「俺」は共存しています。
二重人格ということではなくて、意識として主に2つ存在している、ということです。

ですから、ここまでは「俺」が書いた文章です。それでは「僕」が書いてみます。

今日、指導教員と面談をしてきました。
内容としては、顔を合わせて話をするまでもなく、まして電車に乗って往復4時間かける意味すらなかったです。
僕は指導教員に「今、精神的にきついです。心が折れるような」と言いました。
それは全て計算済みの言動です。
指導教員の先生は僕が通院していることを知っているので、「僕を追い込むような言葉をかけることはこれ以上しないだろう」という算段の基、そう言ったんです。
また、「通院が二週間から一週間になりました」という嘘も吐きました。
これは保険であり、一応言っておいた方がいいかなと思ったための言葉です。
上記の「精神的にきつい」だけでは弱いかな、と考えたので。

以前から「俺」が書いているように、僕も始めからこの就職難は、経済状況によるものだと思っています。
僕は悪くない。
だって、普通、就職支援課の飼犬のように従ってきたんだから、内定を1つくらいもらえたって当然だと思っています。
それなのに、就職支援課の人間の助言、添削なんて糞の役にも立たなかった。
彼らは役立たず。授業料から返してもらいたいくらいです。


って感じで、まぁなんとも「僕」は性格が悪いですよね。
指導教員に対する計算による言動は、以前は自分としても抑制していたのですが、最近は「僕」の側面が大きくなりすぎて免罪符にしがちです。
「僕」だけであれば、罪悪感は全く無いのでしょうが、「俺」もいるので、自分は先生に対して罪悪感を持っています。

その罪悪感の有無で、ある意味で正直に事実を書くことができるかどうかが決まるのだと思います。
そのため自分は書くことができませんでした。

就職支援課に対する気持ちは、「僕」と「俺」の感情は一致しています。
ただ、それを表に出すかどうかだけで。
「僕」はためらい無く出すこと、こうやって書き出すことは可能ですが、「俺」はためらってしまいます。
なので、自分は曖昧な表現で終わらせました。


人には多くの顔がある、と自分も思っています。
ただ、その「顔」の1つだけが大きくなりすぎて、他のどの顔をも消し去ってしまったとき、問題が起こります。
今回の「僕」は文章だけなのでまだマシですが、これが「行動」として現れたとき、大問題です。
「僕」なら自分の腕を切ることをためらいません。
また、それを見せびらかしたいとも思います。そのため、その腕を携帯のカメラで写し、この場に画像をアップします。
そして、それを根拠にして、死にたい度合をアピールし、かまってもらおうとします。
それでも無反応である場合には、交流のある方々のブログに突撃します。
もちろん、ツイッターにも。


そのため、大きくなりすぎた「顔」を抑制する、もう1つの顔が必要になってくるわけです。
これが、今、自分の中に「僕」とそれを抑制する「俺」がいることの説明です。


自分は、以前、「僕」の行動を「若気の至り」と称していました。
しかし、それは間違いでした。
なぜなら、今、自分の中にいる「僕」がそれをしたがっているからです。
つまり、24歳になった現在の「僕」も、上記の行動をしたいと思っているということです。
そのため、「僕」の行動は「若気の至り」ではなく、「僕」の本当の姿であったと自覚しました。


と、何か自分をわかった気になっているこの「自分」って奴にも何か嫌気がw
こんな説明をここでしたところで一体何の意味があるのやら。

ただ、自分の息苦しさや辛い気持ちは「僕」を押さえ込んでいることによるものだと思う。

まぁ、誰しも色んな顔を持ってるんだろうが、自分のそれはあまりに極端で。
だから、人格障害なんだろうな。
それを自覚し、その人格障害を押さえ込むことの大変さを少し理解して欲しいな、という計算からこんなことを書いたのは「俺」です。

疲れた。
最近のは「僕」が強くなったんじゃなくて、「俺」が弱体化してんだと思う。

たまーに書く乱文は、「僕」と「俺」が混ざり合ったときに書くもの。
書きながら嫌悪感を抱きつつ、それでも書いてしまう。

自分語りが好きなのは、メンヘラの特徴だ、とか言われたっけ。
別にいいや。
ここは自分の場。
間借りしているけど、一応、自分の場。
頭いてぇ。

ここにきてくれる人にとっては、別にどうだっていいことだもんね。
書いてんのが僕だろうが、俺だろうが、自分だろうが。
これでまたおもしれーこと1つでもかけりゃいいんだろうけど、そんなこともできねーし。


自分に正直にって言われたとき、その正直っていうのは「僕」なんだよ。
で、ツイッターでの言葉を借りれば、それを態度に表さなければ何ら問題はない。
脳内は誰も侵すことのできない領域だから。
そこは、自分も改めて納得した。

問題は、それを表に出す「僕」なんだよなぁ。
だから、それを押さえる「俺」が疲れてる。
結局、自分が疲れてる。
どうすりゃいいのかわからん。
わからない。

頭いてぇ。