くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

雨が降れば傘をさせばそれでいいが。

自分で自分を許す、慰めるということはとても困難であるために、できる人は中々いないのではないかなぁと思います。

僕自身、自己肯定感が薄く、自己評価が極端に低いのですが、そういったことはきっと、自分で自分を慰めたり許したりすることが難しいからなのかもしれません。


僕は僕自身の判断で研修を辞めました。
その判断に僕はまだ後悔というものは持っていません。これからどんな気持ちを持つことになるのかはわかりませんが。

しかし、一方で僕は他人に迷惑をかけてしまった自分を責めてしまいます。
具体的には、研修先や必要書類等を用意して頂いた方々にお世話になったにも関わらず、それに報いることのできなかった自分を責める、といった具合です。

こうした自分の行動を、自分自身で許したり肯定したりすることは容易ではないと思いますし、実際に僕はできませんでした。


それでも、僕は独りではなく、第三者の方々や仲間に許されたり、同意してもらえたりすることで、救われました。

例えば、カウンセラーやミーティングの仲間。
そうした人達から、僕が、研修を辞めて他人に迷惑をかけたことについて、許されたり肯定されたり同意してもらえたことが、僕の背中を支えてくれたように思います。


もし、僕が独りであったなら、他人に迷惑をかけたことについていつまでも悩み、挙句は死んでしまいたい程に気持ちが落ち込んでしまったと思います。
実際、僕は死んでしまいたかったです。
そんな勇気が無い事は知っていますが、それでも僕自身が自分を許すことができなくて死んでしまいたかった。


そんな考えを打ち消すのが、第三者からの許しや肯定、慰めの言葉なのかもしれないと僕は考えました。
僕の判断や言動の多くは一般社会的に見た場合、甘いだの、理想論だの、キレイゴトだの言われるようなものばかりであると自覚しています。

そんな自覚を持ちながらも、僕はそういった思考を変えられない頑固者でもあります。
このような頑固者の思考を肯定してくれたり、うなずいて聞いてくれる人達がいるからこそ、僕は安心できるのかもしれません。


自分だけではどうにもならない感情、物事、そういったものは必ずあると思います。
そういった時にこそ、人がいるのだと僕は考えます。
僕のしたこと、考えていることを許してくれたり、同意してくれたり、慰めてくれたりしてくれる人達。
相手のしたこと、考えていることを許したり、同意したり、慰めたりする自分。
持ちつ持たれつで、良いのではないかなぁと。


それが、人は独りでは生きられないことの証明なのだろうな、と。
今回もよくわからん内容でしたが、言いたかったことはこれでした。

そして今日はそれを改めて実感させられた一日であったように思います。

それでは。