くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

2つのそうぞうに意味はあるのか?

今日は珍しく、人に誘われ外出してきました。

高校バレー大会の観戦だったのですが、僕はスポーツ観戦より誘って頂いた方と話がしたいなぁと思ってお誘いを受けました。
相手は男性のミーティング仲間なのですが、歳もそんなに遠いわけではなく話しやすいため、目的地まで乗っていった車内でも特に緊張も無く楽しく話ができたかなぁと、個人的に思いました。


今回は、タラレバによって理想的な自分を創造することと、子供の成長から将来を想像すること、2つのそうぞうが意味のない事である、ということを書きました。
==== 僕には、語ることができることとできないことがあります。
語ることができることとは、不登校やひきこもり、虐待について等です。
一方で、語ることのできないこととは、小学校〜高校までの生活についてです。
僕は小学校3年生から「学校」という集団生活を体験していないので、語ることができないのです。


僕は、タラレバをよく考えます。
僕が不登校、ひきこもりにならなければ、なんて。
そうして、あり得ない登校していたら、ひきこもっていなければこうであったであろうという自分を創造し、現状の自分と比べ落ち込みます。
そんなのに意味が無いことは、文字上は理解しているつもりです。ただ頭、心はどうしてもそれを許さないようで。


僕が創造した自分と言うのは、学校へ行き、部活をしたり友達と遊んだり、勉強もやりながら行きたい高校や大学を自ら選び受験に臨み合格して、自分が決めた道を歩んでいる、というまさに理想像です。


そんなこと、実際にできたかどうかなんてわかるはずもないのに。
途中でいじめにあったかもしれない。
部活だって長続きせずに辞めてしまっていたかもしれない。
そもそも勉強なんて身が入らずに、行きたくも無い高校に進学し、行きたくも無い大学へ進学していたかもしれない。
いや、大学になんて入学できなかったかもしれない。


僕のタラレバは、僕に限ったことではないのかもしれませんが、殆ど良い結果しか思い浮かびません。

そんなタラレバによって創造した、「理想的な自分」と「現状の理想とは程遠い自分」を比べることに意味があるのかなぁ?と考えます。


多分、意味はありません。きっと時間の無駄です。
現状の僕は、自分の理想とは程遠い状況ですが、それは事実として受け止めなければならないものですよね。
理想的な自分をいつまでも追いかけていても仕方がない。過去は変えられない。
それでは将来を変えるために現状をどうにかする、なんて息巻いても長続きせず。


ならば、自分が創り出した理想的な自分なんかと比べることなく、また自力での変化を求めず、マイペースに過ごしていた方が自分らしいのかなぁ、と。

こういった考えも、一般的思考というもので潰されそうになったりします。
「自分を理想に近づかせることが美徳なのだ」とか「変われないのは努力が足りないからだ」とか。
僕は傍から見れば思考が歪んでいるので、自分を自らの理想に近づけようとは思わなくなりました。
また、そのために自分を無理に変えようとも思わなくなりました。


僕は、理想を追い求め、それに向かって努力する人を馬鹿にしたり見下したりしているわけではありません。
それに、変化を求めることについても、できることなら変化して行けば良いとも考えています。
諸行無常という言葉があるように、僕自身も変化が無いと言いながら、実はどこかで何かが変わっているのかもしれません。

ただ、僕自身は、理想を追い求めることや変化を強制されることには反抗します。

簡単に言えば、他人のことなんて知ったこっちゃない。僕はできるだけマイペースに生存していこうかなぁ、といった具合です。

そのマイペースの過程で、理想に近づいたり、変化していったならもうけもの。
人にはそれぞれ歩くスピードや歩幅があって、それを許容できたらいいのにな、と思います。



ある方が、人のことを花に例えていました。

1年で10センチ芽が伸びる子もいれば、まだ種から芽が出たという子もいる。
まだまだ種から芽すら出てこない子だっている。
この例だって、1年で10センチ芽が伸びた子が、そのまま順風満帆にぐんぐん伸びていくとは限らないと思います。
逆に、芽が出始めた子、まだ芽が出ていない子が、もしかしたらいきなり1メートルを超すくらいに芽を伸ばすかもしれません。


将来なんて誰にもわからないことだと、僕は考えています。
わかっているのは過去くらいなもので。

現状を憂うことを僕はよくします。
それは、先ほどから述べているように、あり得ない理想的な自分と現実の自分を比べるからです。
そんなことをしても無意味です。

上記の子供を芽で表現した話も同様です。
これからどうなるかわからない子供の姿を、芽が早く出てきたからと理想的な子供を思い浮かべたり、逆に芽が出るのが遅く将来を悲観したり、芽が出てこないことを非難したりすることは、無意味だと考えます。

僕は人の子の親になったことが無いため、親心はわかりません。
親だからこそ、芽が出てきたことを喜び、期待もするのかもしれません。
一方で、芽が出てこないことに不安を覚え、不満を持ち、子供に当たってしまうのかもしれません。

けれど、繰り返しになりますが、将来のことなど誰にもわからないんです。

それでも将来のことを決めたくなったりする気持ちはとてもわかります。
僕は自嘲気味によく、「自分はもう終わった人間だからw」なんて言います。
これも、将来を決めておく、僕の場合は悪い将来を決めておくことで、実際に悪い将来であった場合の傷を浅くするためです。


でも、念仏のように言いますが、将来なんて誰にもわかりません。(しつこいですね、すみません。)

今回は、タラレバによって理想的な自分を創造することと、子供の成長を芽に例えて、芽の出具合から将来を想像すること、2つのそうぞうが意味のない事である、ということを書きたかったのでした。

それでは。