くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

僕は身体を傷つけた まだ感情なら残っていた

私の心は残酷です 汚れた血の残骸

ART-SCHOOL


テンプレ変更。
といっても、作者の方は同じ方だった。

こういう人に使ってもらうものを創造するという才能持っている人、羨ましいなぁ。

同時に、妬ましくてたまらない。
歪んだ思考は表裏一体。

創造力は才能だよな~。
音楽を創るのも、ゲームを創るのも、アニメを創るのも、面白MADを創るのも。

センス。

センスないね自分。
自身を創造する力も無い。
いや、大体は創造力が無い人のほうが多いはずだろうけど。

センスのある人ってのは、自分を信じているから創造できんのかね。
創造したものを他者から評価されることで、自分を信じることができるのかな。
多分、前者。

どん判でお馴染みの?稲船さんも、自分を信じているから色んな発言をしているのだろう。
その内容はともかく、ね。

その内容に対する反応が否定的であったり、または批難されるものであったとしても、それを受け入れる、あるいは跳ね返す、もしくはスルーするだけの自身の力は、きっと創造力によって補われるのかなぁと。
稲船さんは、跳ね返すを選んでいるように思えるけどw
だけど、跳ね返すにも力が必要で、やっぱりそれは創造力に裏打ちされたものなのかな。


その創造力ってのが自分には無い。
では、どう自分を信じるためにその他の能力を、何をどのように発揮していくか。
わからん。
まったくわからない。

自分にあるとすれば想像力であり、妄想力でもある。
けれどそれらは自分を信じる力では足りない。
ともすれば、自分を信じられない力となり得るわけで。


言いたかねーけどさぁ、「お前は要らない」とか、「虐待?そんなのあったんだ(笑)」とかそんな環境下で育ったら、養うべき力も身につかねぇだろう、と。

自分の存在を否定し続け、自分の体験や記憶も否定し、んでもって自分への対処は病院へ丸投げ。
どうやって、自身を信じる力なんて身につくんだよぉぉぉぉぉぉ。

本来ならば、そういった局面に応じて、友人なり誰かとの繋がりによって解消していくのが思春期だったのだろうけど、自分もそれを喪失した形になって、まぁ八方塞もいいとこですね。

信じるも信じないも無い。
って言う人もいるだろうけどさ、これは重要なんですよ。自分にとっては。
宿題みたいなもんで。

今までの自分の思考パターンからすれば、自分を信じられない→それは過去のせいだ→だからこれからも変わらない
だったんだけれども、
これからの自分の思考パターンとしては、自分を信じられない→では、どのようにして信じていくべきか?
と言う風に変わって行かざるを得ないと考えている。考えられるようになったと言うべきかな。

「いや、お前は以前から人は変われないって言ってきただろう」って言われるんだろうけど、それもその通りで。
自分の本質部分で言えば、変わろう変わろうとして、実際に変わることができたことなんて何1つ無い。

ひきこもりから実社会への対応は、本質部分の変化と言えるのか?
家から出られるようになって、バスに乗れるようになって、電車に乗れるようになって、学校に行くことができるようになった。
これらは全て、表面上の変化にすぎねーだろってこと。

上記のことをクリアした俺は、未だに自身を信じられずにいる。
でもって、過去のことも未だに引きずっている。

今の大切さ、刹那主義などではなく、将来を見据えたマイペース。
その意味は、ある人を通して知ることができたし、この場でも何かよろめきながらも受け入れられたと思う。
そんな最中、だけどっていう次の課題に直面した。
それが、自身を信じること。

ああ、繰り返しになるけど、過去のことも何ら解決してねーや。
何の折り合いもつけられずにいる。
宿題その2だな。


「自身を信じること」っていうのは、他者と自身に境界線を引くこと・・・かな?
境界例境界性人格障害の如く、境界線が無いと、自己を保てないし。
それが、まぁできていないわけです。

その原因が過去にある、というのが自分の考え。
母親に散々「見捨てられ不安 」を植え付けられた幼少期、これが発端。
ぐらぐらした人間関係になる要因。

見捨てられないために、自分を作ろうと必死にもがいても評価されない。
それどころか、そんなもがきすらあざ笑うかのように、ただ「お前は要らない」と。
「何で?僕のどこがいけないの?」とかじゃなくて、「どうすれば母さんに好かれるんだろう、一緒に連れて行ってもらえるんだろう?」なんてことをずっと考えてきた。

ちっちゃいころから、自分主体で物事を考えてきたんじゃなくて、「母さんのために」自分を考えてきた。

ザコン乙w
とか笑うなら笑えばいい。
自分は悔しいほどにマザコンだったのかもしれない。
母さんに捨てられたら終わりだって思ってた。
冷静に考えれば、父について行った方が経済的には安定していたし、不自由なく暮らしていけたのかもしれないけど、そんな冷静な判断、ガキにできるわけねぇだろ。

ことあるごとに、母は自分を不安にさせた。

両親の喧嘩は日常茶飯事→自分はオロオロ、でも、母さんに見捨てられない為には母さんの味方をしなくちゃいけないから、母の味方になる→それなのに、母は「もう出て行くけど、お前は連れて行かない」、と。

自分の努力はいつも無駄で。母に気持ちなんて伝わらなくて。
母にとっての自分は、父を繋ぎとめるだけの鎖に過ぎなかったんだ。
ずいぶん後にわかったことだけど。

でも、気づいたときには遅すぎて、自分は主体的に物事を考えられなくなった。
人の顔色をうかがって、まずは人の気持ちを最優先に考える。
自分の気持ちは押し潰して、とにかく他人「様」が第一。

自分が信じられないのも、「他人様」がどのような気持ちでおられるかが重要で、いつも自分の行動を疑っていたから。
自分のこの「顔」では他人様に嫌われてしまう、評価が下がってしまうのではないか?
自分の行為によって、ご機嫌を損なわれたのではないか?って感じで。

そうして自分を信じられない俺が形作られた。

自分は今だって、不安で仕方が無い。
「こんな風に書いた文章を、訪問なされた方々はどのような心持ちで拝見なさるのか」といったように。

他者を信じることはできる。
前記事、前々記事のように、盲目的に他人を信じるのがそれ。
それの弱いバージョンが、例えばツイッターでのやり取りとか、そんな感じ。
他者を信じているから、ある程度の冗談とかは言えるようになった。

裏を返せば、強いバージョンが盲目的な他者信仰者としての自分。


また分析に終始した。
さて、これからどうすればいいんだろう?

このまま自分を信じられずに生きていくとしたら、ずっと不安を抱えたまま生きていくことになるのだろうなぁ。
それなら、やっぱり死んだ方がマシだよな。
方法論がわからない。

自分の問題、宿題なのに、自分で解けないなんてねぇ。
なんとも愚かだよな。

この文章を書いて、母に対する自分の過去の行動や感情を思い出していたら、涙が出てきた。
これは悔し涙で、今も悔しい。
鼻水もずるずる。
過去は戻らないって、その一言で済まされて、ただこの涙だってそうやって済まされて終わるんだ。
けれど、涙が止まらない感じなのは、自分の中ではどうしても済んだことにはできないからで。

また不幸自慢だったかもしれない。
って、こういう風に考えてしまうんです。
書いていて情けなくなりますが、手が勝手に打ち込むんですよw


こうやって、ブログに自分の感情をぶつけて、それとなくカウンセラーさんにも話し、それでも解決なんてできそうもない。
そんな話題を延々としてきたわけです。

鬱憤ってのが溜まってきて、ついには最近は再び自傷行為に走りました。
前の記事でも書いた理由とはまた別だったんですね。
これもまたかまってちゃんの戯言で。

自分はぶつける術がないために、自傷行為を行う。
解決できない問題への苛立ちを、自分に向ける。
そしてそれをここで表明する。
抵抗・・・になってねぇよな。全く。

消えないように深く刻んで、自分の無力を表明するんだ。


断薬日記
着々と調子が悪くなってきたw
それはそれは体感できるほどに。
あの頭のズンズン感ってのも、このせいなんだね。
でも続ける。
自分の特徴は、継続力のあることです(・∀・)

以上。