くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

着飾らずに、そのままで?

ありのままって?
昨日の記事のコメントで、

『ありのままの自分に対して自らが違和感を感じるのは、「世間」が間違っているからだと思います。』

こういったことを書いてもらった。

わかりきったことを書くけれど、世論というものは、多数者の意見で決まる。
「~首相の支持率が」なんて言うのは簡単な例かもしれない。

自分は、その世論が支配する世界を、「世間」だと考えている。

つまり、「多数者の意見によって作られた世界」=「世間」。

Aさんは、その「世間」を間違っていると見た。

実は、自分はその世間こそ異常であると本当は思っている。
後付けになってしまうけれど、いつも自分は「世間」に違和感を感じてここまできた。

ただ、前述の通り、世間というのは多数者による世界だ。
そのため、一個人又は複数人の意見だけで「世間」に対抗できると思えなかったし、今もそう思っている。

よって自分は、「世間に違和感を感じている自分こそ異常なのだ」と納得させてきた。


ここまで書いてきたら、大体、反感を買うようなことを書くことは予想できるかもしれない。
でも、自分が思ったこと、感じたこと、考えたことをそのまま書いてみる。
いつもしていることだけど。


「世間が異常」、これが自分の見解だ。

「世間=多数者の意見によって作られた世界」が「異常」。

もっと簡単に「多数者の異常」と自分は考えた。


例を出してみる。この例は幾度となく書いてきた例だけど。
「あたりまえ」という言葉がある。
この言葉に、「多数者の異常」が表されている。

外に出るのは「あたりまえ」
子供は明るく、活発なのが「あたりまえ」
電車に乗ることは「あたりまえ」
人とコミュニケーションを取ることができるのが「あたりまえ」

上記の事柄を何故、「あたりまえ」とするのだろう?
これが、自分が最も身近に感じる「多数者の異常」だ。


社会でこう自分が「多数者の異常」などと表現すれば、「そんなこともできない、お前が異常なのだ」と返されるのがオチ。
少数の言葉、一個人の言葉など何の力もない。

しかし、さっき、とあるブログで、この社会にとても怒っている方がいることを見て安心した。
(ちなみに自分は、社会=世間と捉えています。)
それは自分の考えに近いモノであったからかもしれないけど、共感した。

その方も「世間の異常」に気づいているのだ、と自分は解釈した。

何も変わらないかもしれない、けれど、確実に「世間の異常」に気づいている人がいる。
それが安心の要因だった。


それでも、絶対に「世間」に抗うことはできない。
「多数者」に逆らうことはできない。

それを悟った人、もしくは悟らなくても何らかの形でそれに近いことを感じた人が、死んでいくんだ。
抗うことができない。一方で、「多数者」に入ることもできない。
行き場を失った人々は、この世、「世間」から去る。

自分は、抗うことができないと考えている為に、多数者に取り入ろうと努力をしてきた。
今だってそれは続けている。
それが昨日書いた、「自分が異常」という旨の文章。

だって、そうしなければ「多数者に批難されてしまう」「飲み込まれてしまう」「潰されてしまう」と思ったから。


国家システムが、民主主義を前提としている以上、「多数者の異常」は必然だ。
そして、「多数者の異常」を「少数派の狂言」とすることも必然だ。
数にはかなわない。

さっきの繰り返しになるけど、自分がここで「今の世間こそが異常だ」と書いたとして、「君の頭が異常だ」と言われたらお終いということだ。

なぜなら、自分の意見など1人又は少数人でしかわかりあえないものだから。
そのため、大勢、多数の人間がそれを否定し踏み潰すことなど容易なんだ。


「多数者の異常」などと考えること自体が、「異常」なのかもしれない。
そうも思っている。
自分に自信がないから。

自分の考えはいつもぐらぐらしていて、きっと多数の人から見ればまともじゃない。
あ、自分の意見をそのまま受け取ってくれた人がまともじゃないってことではないっすよ(ノ∀`)


世間の間違いや歪みの存在を肯定し、それを前提とするなら、修正すべきは少数派なのだろうか?多数派なのだろうか?

自分の立場はあくまで「多数者の異常」と言ったからには、多数者が修正すべきであると考えている。
これもただの遠吠えなのかもしれないけど。

こんな風に調子に乗って書いた理由は、Aさんが自分を「異常だとは思えない」と言ってくれたから。
正直に書けば、自分は自分のことを信じることができない。
それは人の意見にも言えることで、自分はAさんに限らず誰の意見をも信じることが中々できない。

それでも、そう思ってくれたという文章が、自分は嬉しかった。
それだけで、自分は救われた気持ちになった。

以前、主治医に「自分は変わっていない」と言ったことがある。
そうすると、「でも、くろくんは頑張ってきたよね。それは俺が誰よりも知っているよ。」って。
自分はそのとき初めて、主治医の前で泣いた。
自分を肯定してくれる他人がこの世の中に、現実に存在辞していたことが嬉しくて。

当然、主治医という立場上でのことかもしれない。ただ、それでも嬉しかったんだ。

昨日の詩のブログにも、そんな感じの詩があって、だから涙ぐんでしまった。

頑張ってきたんだねって、それを言って欲しかった。
カウンセラーの人からは、「物凄い体験をしてきたんだね」って言われたっけ。



そういえば、多数派、少数派って話はBさんとはしていたんだったな。


少数が多数に取り入ること。
自分がしていることだ。
それでもし、取り入ることができたら、自分はどんな視点で物事を見ていくのだろう?
自分は変わるのか?


なーんて。
自分は一生、多数派にはならないよ。
だって、多数派を異常だって思ってんだもん。
いつまでもこの違和感を忘れずに、少数派としているんだ。
それしかないんだ。