くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

雨男、今日も行く

横手は今日も雨だった。

公務員試験。
教養試験の後、グループディスカッション。

個人的には、集団面接よりもグループディスカッションのほうがやりやすい。
なぜなら、グループの全員が妥協を前提として、相手を尊重しながら、優しい雰囲気でやり取りをしてくれるから。
全くの初対面であるにも関わらず、優しい雰囲気で人と話ができるというのは、グループディスカッションならではなんじゃないのかなぁ。

もちろん、間違ったことやわかりにくいところを指摘するのはあるにしても、それでもやんわりと、優しさがある。
面接官とのやり取りではどうしても緊張してしまうけれど、こういった優しさのある人たちとのグループワークなら大歓迎だ。

それで自分のどこを見ていたのかはわからないけど、今日はもうこれでよかった。
自分は、いつもの明るい「くろくん」を出せたし、人に優しくなれた。
人に優しくできる機会って、話がしつこくなってあれだけど、友達や恋人、親、家族のような存在が周りにいるときに巡ってきやすいと思う。
それらがない自分にとっては、今日は珍しく人に優しくなれた日。

人に優しくっていうのは、気を遣うのとは違う感じ。
まるで、自分がカウンセラーになった気分。
やったことはないけど、小さな子供を相手に加減をしながら遊び相手をするような。

何を書いているんだろうな。


これまたしつこいけど、今日も雨が降った。
昨日は雨が降らなかったように思う。
明日からは晴れるらしい。
やはり、自分が外に出ると雨が降る。
雨男か。



結局は自分

自分じゃどうしようもないことがある。
自分は、学校に行けると思っていた。
ずっとずっと変わらずに、学校に行って、友達と遊んで、勉強して、部活をやって。
けれど、自分ではどうすることもできない環境が、自分の選択肢を無くしてしまった。
そのような場合、つまり、選択肢喪失の状況下では、「結局は自分」とはならないと考えた。

決めるのは自分。
そう。
自然人は皆、自己決定権を有している。
そしてその自己決定権を行使するかどうかも自由だ。
しかしながら、選択肢がなければ、自己決定権を有していたとしても実質的には何の意味もない。
選択肢のない問題を出題されても、答えようがないのだ。

繰り返しになるが、その選択肢の喪失が、自身ではなく前述のように「外的要因」によってもたらされたのであれば、それは、抗うことのできない力による自己決定権の制限にあたる。

ただ、これはあくまで例外なのかもしれない。
結局は、自身の稀なケースを挙げて、一般を否定するかのような書き方は、何かずるいと自分でも思っている。

それでも、「結局は自分」と済ますことのできない問題があることも、ここに記しておく。
できると思っていても、兄、家族に壊されてできなくなってしまうということがある。
そのとき、自分が無理だと思っていなくても、勝手に達成不可能な方向へ進んでいくんだ。

確かに、自分の可能性に制限を設けるべきではないし、世間からの縛りというものに関しても屈してはならない。
その上で、どれだけ自身を信じても、自身以外の外的要因による選択肢の喪失によって叶わないという現実がある。

また、選択肢があらかじめ決まっている場合もあるだろう。
端的な例を挙げれば、2万円の健康診断書を採用試験のために自分が欲したとしても、お金がなければそれは選択肢がそもそも決まっている。
自分がどうしても欲したとしても、ない袖は触れない。
できると期待していても、無理なものは無理なんだ。



ま、諦め癖のついた自分が色々と言ったところで、何を今更って感じもするけど。

誰だっけ?
「人は選択しながら生きていく生き物である」みたいなことを言っていたの。
記憶違いだったかな。
選択肢の喪失って言ったけど、言い換えれば、選択肢の限定なのかもね。
それしかないっていう。
選ばざるを得ない。
それしかないという思い込みではなく、本当にそう仕向けられる。


関係ないけど、トイ・ストーリー面白かった。
もしかして、ディズニー作品なら楽しめるのかもしれない。
と、思った雨男。
以上。