くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

家の中には

なかった。


首をつる場所がなかった。
今晩、母もいないので、なんとなく引っ掛けられる場所をさがしてみたけどなかった。
と、出だしから頭のおかしいことを書いているけど、ついてこれるかな。

ドアノブでのか、こう膝をつけてとかじゃなくて、ぶらーんとなるような死に方をしたいんだ。
笑えるな。
家には居場所も死に場所もない。
とかいって、雨の中で何書いてんだろ。

少し楽になった。
今思っていることを、そのまま書き出したら楽になった。

明日、公務員試験があって、それを受けに行く。
当然、受かるわけがないから無駄になるわけなんだけど、そうしないと何もしていないって言われるから。
それだけ。
つまり、文句を言われないようにするために試験を受けに行くだけ。
期待は本当にしていない。

この日のために勉強し、またコネを有している人と、こんな自分じゃ、ね。


自分の中では、もう就職活動は終わってしまった。
そういえば、就職できなければ死ぬって言ってたっけ。
言ってたっけ?
言ってたよな確か。

それって、就職できるって想いが前提にあって言ったんだよな。
なんて恥ずかしい言葉だったんだろう。
なんて思い上がった言葉だったんだろうな。

「人の思考には当然に、生と死が並存している」と言う前主治医の言葉を思い出した。
少なからず生きたい・生きていく意思を持つ人は、生への比重が高い。逆に死への比重が軽い。
それが、自殺してしまった人は死への比重が高くなってしまったがためにそうなった。

シーソーみたいな感じ。
死にたい自分と生きたい自分が向かい合って座っている。
生きたい自分はとても重い。
死にたい自分はとても軽い。けれど、死にたい自分にはストレスやらなにやらとにかく付着物が多い。
そのため、どんどん重くなっていく。
そうして、死んでいくのかな。

今日、自殺した近所のおじさんが育てていた野菜を食べた。
ししとう。奥さんが家に持ってきてくれたらしい。
何で死んだんだろうな。
永久にわかるわけない疑問。
ししとうを素挙げしたのを食べて、何となくそう思った。

野菜は育ってんのにね。
育ててた人はいなくなっちゃって。
しかも、近所は何事もなかったかのように静かで。
奥さんも気丈で。
まるで誰も死んでなんていなかったような。
わざとそういう配慮をしているのだろうけど。

葬式って大事なんだな。
その人の生き様を振り返ったり、亡くなったことをおおっぴらに悲しんだりする場として。
おじさんには娘さんもいた。
近所の知り合いだって、自分の母親もお世話になっていたし、多かった。
それなのに、自殺をしてしまえば何もない。
酷い。生きてきた60年、それを皆が無視しているような感覚に陥った。

傷に触れないことを現代の優しさであると、「やさしさの精神病理」という本で書いてあった。
昔は、相手の懐に入り、傷に触れて治していくという優しさだったらしい。

傷に触れないことが優しさなんだ。
だから、人間関係が希薄になったのかな。
それとも、人間関係が希薄になったのは、傷に触れなくなってしまったからなのかな。
わからない。


絶対に、セロクエルが効いている。
死にたいと生きたいが90:10だったのが、60:40になってる。
体重も全く変化なし。


でも、副作用なのか、緊張感がない。切迫感もない。
ただ虚無感だけがある。
それが少し、死にたくなっている今が残ってる。

これからのことも考えると、不安な気持ちが生まれてくる。
けれど、眠ることができる。
不安で死にたくなっても、眠ればその時間は関係ない。

このまま自分は職に就けず、両親の荷物になって、両親を養うこともできずに、どうすればいいんだろう。
それどころか、両親に迷惑ばかりかけて、何を返すにしても何もできない。
できないことを頭のおかしさのせいにして逃げて。

それでも、今、何故か物凄く死にたい気持ちがない。
かるーく死にたい。
なんて馬鹿なこと言って、死ねないんだ。

だから、間違って死ねるよう頑張る。
ありがとう。
では。