くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

HMF(被害妄想フィルタ)

思い出の結末というのは、自分にとって明るいものが思い出せない。
思い出と名づけられたそれは、自分にとってはトラウマと置き換えられるのかもしれない。

過去との決別。と言ってしまっていいのだろうか。
ある人のブログにて。
なんという強さを持っているのだろう。
人を許すというのは、例えば「約束の時間に遅れる」くらいのことであれば容易だろう。
けれど、心の傷と言うべきか、そういう事柄に関する「許し」は容易ではない。


自分はいつまで人を恨み続けて生きていくのか。
「現状を過去のせいにしているだけ」
誰かに言われそうで、言われない言葉。
きっとそうなのかもしれない。
どれだけ自分の過去を晒したって、ただの言い訳なのかもしれない。

「傷ついた人はその分、人に優しくできる」と言う。
けれど、「傷ついた人はその分、人との距離を置くようにもなる」と思う。
後者は自分。
自分は前者になりたかった。

自分が「加害者」となることが怖くて、ありきたりな言葉に作り笑顔、おもいやりのある人間を演じているに過ぎないということは知っている。
自分の優しさなど嘘で、ただ自己保身のための行為。
そう考えたとき、いつも自己嫌悪に陥る。

誰かに言われたことがある。

「自分が何か行動を起こした瞬間、その一瞬の想いが本物の動機なんだ」って。

本物の動機が利己的なものだったとき、自分はまた自己嫌悪に陥る。
自分にとってそれは恒常的なもののようで、身体に染み込んでしまったものだ。
どうしようもないね。

「自分のことを始めに考えてみよう」
多くの人達から言われた言葉。
「人からの目(評価)を気にする前に、自分の行動に自信を持とう」というような意味合いだと受け取っている。
それができれば、いいな。
そう思うだけで。

要らない、要らないってさ、そう言われ続けていたら、どうすれば人に必要とされるか・評価されるのか、と言うことばかり考えるようになってしまったんだ。
これも過去の言い訳で、同じことを書いているだけだった。

人は独りで、それでも独りじゃ生きられなくて、だけどやっぱり独りで。
そう思いながら、人との触れ合いを忘れられなくて、しかし、傷つくのが怖くて。
傷つくかどうかもわからない中で、傷つくことを前提に人付き合いを考え、人を恐れ、警戒し、信用しない。

それが、自分。

怖い人ばかりなわけないじゃないか。
人はそこまで他人に興味は無いし、十分に利己的な存在だよ。
利害が一致または衝突でもしない限りにおいて、敵対するはずが無い。
むしろ、利用価値があるとして、君を必要とするかもしれないよ。

そう自分に言い聞かせてみても、どうしても上手くいかない。
自分の思考の気持ち悪さと言ったら、それはそれはかなりのレベルで。
被害妄想が実社会にフィルタとしてかかっているような。

性悪説性善説も何もない。
自分にとって人は、正義か悪かではない。
善人であれ、悪人であれ、自分の被害妄想フィルタを通して見れば、同じ人間なんだ。
そのフィルタは何もかもを通過させることはない。
それだけなんです。