くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

全ては思いつき

という文章。
本当の自分を書く。
そこに多少の脚色はあるにしても、大枠、柱は真実だ。
笑うなら笑えば良いし、当たり前のことだと思うならそう思えばいい。

この自分を書くことで書類ではじかれたのなら、それで本望だ。
もう希望は持たないから。
宝くじを待つ気持ち。
10枚買って3千円。
3千円で1億円を願うなんて、とても欲張りだよな。

例えが上手くないけど、そんな感じ。
自分は、素直な気持ちで書こうと思う。

もちろん、そんなことをして受け入れられる社会ではないことはわかっている。
だから、これは自分にとって生か死かの行動。
新卒神話になぞらえるなら、これで決まらなければお終い。
添削も捨てた。
採用担当者に興味の惹かれるエントリーシートを書いたところで、筆記や面接で落とされるのだから、結局は意味のないことだ。

それなら初めから全て自由にやればいい。

私は、もう壊れた人間です。
そういう言い訳をこれから続け、そして、死んでいきます。
それは秋前に定まる。

人の虚構かもしれない幸せまでもを妬み、虚構かもしれない人間関係にまで嫉妬をする。
そんな自分が嫌いだ。
愛する人を持つ人が嫌いだ。
大切な友人を持つ人が嫌いだ。
形だけでも家族がある人が嫌いだ。
形だけでも愛する人がいる人が嫌いだ。
形だけでも友人を持つ人が嫌いだ。

そんな想いで、ずっと生きてきた。
その中で気付いたことは、自分が少数派であったということだった。
自分の嫌いなそれらは、当たり前のように存在し、多数派としてある。
自分は何を勘違いしていたのか、自分の基準で嫌いだの何だのと言っていた。
けれどそれは間違いで、自分がおかしいだけであった。
自分がおかしいというのは、この世界でのこと。
この世界っていうのもおかしな話で、現実は1つしかない。
つまり現実だ。

現実の少数派としての自覚を持った者として、これからどうすべきだろうか。
自分の人格に従うとすれば、全てを閉ざして生きて行くのか。
それは嫌だ。
今が嫌だから、嫌だ。
じゃあ、死ぬか?
それは今最も関心のあること。
死への恐怖はもちろんあり、実行する勇気があるかといわれたら無いと即答できる。
けれど、勇気うんぬん言っている場合でもないと、思うようになってきた。
それは、今後もこのような状態が続くのであれば、生きていたくは無いから。

決意表明はどうでもいい。
実行が伴わなければそんなものなんの意味も無い。
それは自分がよくわかっている。

だから、まいってる。
こんな文章垂れ流して、何にもならないこともわかってる。
けど、どこにも吐き出す場所がないから、ここしかないからって考えたから、ここに書いた。
という説明を何故する必要があるのか。
自分は意識的に、見ている人に何か説明をする癖がある。

それは、自分の文章を突っ込まれた場合に、というか突っ込まれないようにするための防衛手段として。
こんなとこからも、人との衝突を避けるだとか、人を懐に入れないという部分が現れてる。
という説明も鬱陶しいんだろう。

自分が嫌になるっていうのが伝わると思う。
こんな人間にはなりたくないだろうって。
いつでも客観を気にするくせに、主観でしか物事を考えられない。
それは、客観を知る術がないからだ。
知らせてくれる人がいない、といったほうが正解か。
人は独り。
繰り返しになるけど、人は独りだ。