水と熱
愛情と目、どちらが大切かな。
他人にはキレイゴトを吐けるこの思考、手。
自分は、他人がそれに値すると思ったからそう書くんだ。
自分で何かを創造することのできる人も、誰かに支えられている人も、皆、必要とされている。
自分は毎回、それに嫉妬するわけだけどw
それでも、自分はキレイゴトを書きたくなる対象は、やはり誰かに必要とされていると、自分が思うからだ。
自分はキレイゴトに値しない。
レイは言ったな「私が死んでも、代わりはいるもの」
自分が死んでも全くの代わりはいないが、代替者となるべき人はたくさんいるはずだ。
なにより、自分の代わりなど求められていないのだ。
それは悲しいし、残念なことではあるけど、現実です。
と、なんとなく、自分に対する嫌悪感からこんなことを書いてみた。
誰のために存在しているのか、そういった疑問が解けずにいる。
利己的に考えれば、それは自分のためなのだろうけど、それでは自分の考える、人は独りでは生きられないというものと矛盾するような。
自分のために生きる存在であるなら、人間としては許されるだろうが、動物としては失格だなw
小さな頃から、否定されて、嘘を吐かれてきた。
自分が愛情を求めても、お前はいらない、と。お兄ちゃんとお姉ちゃんだけいればいいって。
真実っていうのも、自分の周りの大人だけが共有していて、自分は何も知らなかった。
そんな環境で育ってきたら、人を信じれない自分が出来上がるのは当然だ。
と、簡単な説明ができそう。
根底にあるのは、自分が不必要な存在であるという認識。
それと、他者の言葉はまず嘘であると捉えるという行動パターン。
それが自己肯定感を持てない、人を信じられない原因。
ああ、これって何度も書いてきてるんだよな。
現状を確認する術として、いつも書いてしまう。
何故独りなのか、何故自分を責めるのか、何故、他者を信頼できないのか。
自分にあるものは、ない。
親に与えていただいた命、それを維持するための生活費、学費、病院代、薬代、PC、インターネット環境、ゲームあと何がある?
ゆえに、自分には何もないし、失うものなんてない。
空虚な感覚っていうのは、こういう部分から出てきているのかな。
死ねない理由は、痛いのが怖いから。
とても単純な理由だけどw
命を軽く考えていると批難されるかもしれない。
だけど、命の重さを知るためには、大切な誰かを失うしか方法はないと思うよ。
それが親である、と言えるだけの自信がないんです。
自分には、父に対する感謝の気持ちと、母に対する未だに「愛されたい」なんていう思考があります。
一方で、両親に対する憎しみの感情はとてつもないほど大きなものがあります。
前者のそれが2割であるとしたら、後者は8割。
こんな歪んだ思考で生きています。
「世間」では、両親を敬うことの大切さなどが強調されているものと思います。
自分は、どうしてもそれに付いて行くことができません。
もちろん、人との会話や面接などでは、「世間体」の観点から両親が大切だと答えますが。
そういえば、家が嫌なら家出をと。
自分はひきこもりであったため、家出なんていう発想すら思い浮かびませんでしたw
過ぎたことを、何故このように書くんだろうなと。
毎年、書いているんですよ。こんなこと。酷いときには月1回のペースで書いたりもします。
二度と解決できない問題なのに。
笑っちゃいます。
笑ってください。
そうでないと、息苦しくて。
この日記の存在がw
何年経ってもひきこもりってタイトル、本当にそうなんですよ。
何年経っても、本質は変わらないんです。
やっぱり笑えるなw
他人にはキレイゴトを吐けるこの思考、手。
自分は、他人がそれに値すると思ったからそう書くんだ。
自分で何かを創造することのできる人も、誰かに支えられている人も、皆、必要とされている。
自分は毎回、それに嫉妬するわけだけどw
それでも、自分はキレイゴトを書きたくなる対象は、やはり誰かに必要とされていると、自分が思うからだ。
自分はキレイゴトに値しない。
レイは言ったな「私が死んでも、代わりはいるもの」
自分が死んでも全くの代わりはいないが、代替者となるべき人はたくさんいるはずだ。
なにより、自分の代わりなど求められていないのだ。
それは悲しいし、残念なことではあるけど、現実です。
と、なんとなく、自分に対する嫌悪感からこんなことを書いてみた。
誰のために存在しているのか、そういった疑問が解けずにいる。
利己的に考えれば、それは自分のためなのだろうけど、それでは自分の考える、人は独りでは生きられないというものと矛盾するような。
自分のために生きる存在であるなら、人間としては許されるだろうが、動物としては失格だなw
小さな頃から、否定されて、嘘を吐かれてきた。
自分が愛情を求めても、お前はいらない、と。お兄ちゃんとお姉ちゃんだけいればいいって。
真実っていうのも、自分の周りの大人だけが共有していて、自分は何も知らなかった。
そんな環境で育ってきたら、人を信じれない自分が出来上がるのは当然だ。
と、簡単な説明ができそう。
根底にあるのは、自分が不必要な存在であるという認識。
それと、他者の言葉はまず嘘であると捉えるという行動パターン。
それが自己肯定感を持てない、人を信じられない原因。
ああ、これって何度も書いてきてるんだよな。
現状を確認する術として、いつも書いてしまう。
何故独りなのか、何故自分を責めるのか、何故、他者を信頼できないのか。
自分にあるものは、ない。
親に与えていただいた命、それを維持するための生活費、学費、病院代、薬代、PC、インターネット環境、ゲームあと何がある?
ゆえに、自分には何もないし、失うものなんてない。
空虚な感覚っていうのは、こういう部分から出てきているのかな。
死ねない理由は、痛いのが怖いから。
とても単純な理由だけどw
命を軽く考えていると批難されるかもしれない。
だけど、命の重さを知るためには、大切な誰かを失うしか方法はないと思うよ。
それが親である、と言えるだけの自信がないんです。
自分には、父に対する感謝の気持ちと、母に対する未だに「愛されたい」なんていう思考があります。
一方で、両親に対する憎しみの感情はとてつもないほど大きなものがあります。
前者のそれが2割であるとしたら、後者は8割。
こんな歪んだ思考で生きています。
「世間」では、両親を敬うことの大切さなどが強調されているものと思います。
自分は、どうしてもそれに付いて行くことができません。
もちろん、人との会話や面接などでは、「世間体」の観点から両親が大切だと答えますが。
そういえば、家が嫌なら家出をと。
自分はひきこもりであったため、家出なんていう発想すら思い浮かびませんでしたw
過ぎたことを、何故このように書くんだろうなと。
毎年、書いているんですよ。こんなこと。酷いときには月1回のペースで書いたりもします。
二度と解決できない問題なのに。
笑っちゃいます。
笑ってください。
そうでないと、息苦しくて。
この日記の存在がw
何年経ってもひきこもりってタイトル、本当にそうなんですよ。
何年経っても、本質は変わらないんです。
やっぱり笑えるなw