くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

雨か

今日は休みで一日中眠っていた。

何もかもめんどくさいなぁって思って。
まぁそんなこと誰だって思うよなぁって。

「自分って何だよ?」とか「そんな疑問は若いから考えることだ」ってたしなめられるけれど、それは違うんじゃねぇのかなぁと。
自分の持っているものによって、自分の存在意義とかそういうのが自覚されるんじゃねぇのかと。

何の為に働くか?
何の為に勉強をするのか?
何の為に生きるのか?

自分の持っているものによるんじゃねぇのか、って。

大人になれば家族の為?
違うだろ。
ガキだろうがなんだろうが、そりゃあ家族の為に働くなり勉強するなりしている人間だっているわけで。
で、存在意義ってのが勝手に確立されていくのかなぁって。


年齢による区分けには無理があるだろう。
そんなことすらどうでもいいか。


グロい話になる。
==== 死に方について。
アルコールで眠剤を飲み、線路に横たわる。道路に横たわる。
全てがグシャっと。外傷性ショック死?失血死?即死?

冬、アルコールで眠剤を飲み、外で睡眠。
凍死。

なんてことを考えていたら、何となく生々しく感じられてぞっとした。
死ぬのも怖いなぁ。
生きるのも怖い。
「積極的に生きる人」を支えてくれる人は、きっといるだろう。
「消極的に生きる人(死にたいが死ねずに生きている人、死ねないから生きている人、同じか)」を支えてくれる人は、いるだろうか?
後者は多分、疲れるなんてもんじゃない。負の雰囲気ってやつに引きずり込まれてしまう可能性がある。


そんな可能性があるから、他の人々は皆、前を向けば良いのだ。
見放す、見捨てるなんて言葉を使うから、苦しい人間に対しての行動をネガティヴに表現しがち。
だけど、前を向いていくとするならば、多少なりともマシになるだろう。

だから、前を向いて歩けば良い。
僕は消極的に生きる人間という当事者。
手前味噌だけれど、僕は積極的に生きる人も消極的に生きる人も否定はしないし、支えられるかどうかはわからないけど言葉をかけたり、ただボケッと横にいることはできる。

それは、前述の通り、消極的に生きる人間だからこそだと思う。
別にその雰囲気に飲まれることもないだろう。
だって、その雰囲気を出している本人でもあるわけだから。

ただ、積極的に生きる人に、僕は不必要だろう。
それこそ意味が無い。
悪影響こそあれ、良い影響など与えられるはずもない。


何か回りくどいな。
いつもか。

死ぬ死ぬかまってちゃん。
助けて、なんて言葉を素直に吐けない。
だからこうやって間接的に苦しさを表したりして。
そんなことも回りくどい。
ひねくれもののやり方。