くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

(No Title)

今日は、若者支援プログラム(仮)の2回目だった。

今回は意外にも、楽しめた。
暇つぶしなどとは思わずに、単純に話をしていて皆の気持ちに何となく触れられたような気がした。


個性というものは大事だ。
何より、外見は大事だ。
それは、格好がいいとか悪いとか言うのではなくて、「自分」を持っているかどうかにある、と考える。

あるブログの方が、「外見で威嚇することで自らを守る」といったことを書いていたが、これは本当にその通りだ。そして、それを続けられる強い心が必要になる。

日本の社会は、没個性を求められている。
社会は、画一化された人間像を求めている。
その中で、「自分」を保つのはとても大変なことだ。

例えば、ロリータファッション(であってるよな?)をしてる2人組を自分は見かけた。
田舎だからそうは見かけないけど、たまに。
その2人を見た瞬間に、すげぇなって思った。
わが道を行ってるなとか、生き様がカッコイイじゃねぇかと。

特に、閉鎖的な田舎にあって、そのような格好をしているおまいらは勇者だ。
とか思ったんだ。

自分を対比させて。
自分は没個性の象徴だ。
誰にでも柔和に接し、誰にでも同じように愛想を振り撒き、誰にでも迎合する。
格好も無難より少しダサい感じか。
自分は個性を打ち出すことができない。

なんでもわが道を行けばいいとは思っていないけど、「自分」という本線は大事だと思うんだ。
それが無い自分はいつもぐらぐらしているから、特にそう感じるわけで。


どこに行ったって群れがあって、それら群れA・B・Cとどうにか対応して切り抜けてきた。
だけど、その彼らには自分があるんだろうか?

それら群れは、リーダー的な人間を中心として、周囲はその人間に迎合しているだけなのではないだろうか?
それに逆らうとはぶられて、孤立し又はいじめられるのではないだろうか?
それが怖いがために、群れに所属せざるを得ないのではないだろうか?


自分はそういうのに馴染めないので、当初からどの群れにも所属することなく、一方、どの群れにも愛想良く接しておいて、どこからも敵と思われないようにしてきたし、実際にそれは成功した。

傍から見ていると、群れの中の人たちは同じに見える。
類は友を呼ぶということか?

わからないけど、皆、リーダーの色に染まるのかな。


数の暴力には勝てない。
だから自分は、周りを利用し続けてきた。
敵を作らないようにして、何かあったときには助けてもらえるように。
これは、少数派に属していたらありえない話だ。

これが自分の偽り。
自分が無いってこういうことなんだ。
周りを利用して自分を守ることに集中し、結果、自分で自分を守ることを見失う。
馬鹿だ。

また、他のブログで、孤男という言葉を知ったけれど、それも個性じゃないかって考えた。
彼らもまた、心の葛藤はあるにしても、「自分」と言うものを持っている。
譲れないものがあるからこそ、そういった状況にあるだけなのではないのかな、と。


さて、八方美人の自分はなーんにもない。
現代社会が求めている人間像は、画一化されている!なんて言っておきながら、それに迎合しているじゃないか。

誰にも見捨てられたくないなんて思考は、笑われるだろうけど。
自分はそう思ってる。
それはありえないことだとわかっているけど、思っている。

きっと、ラーの鏡に自分の姿は出てこないだろうね。
どんな顔が自分だったんだろうな、なんて考えてみたり。
馬鹿だねぇ。