人のせいにするよ
2つのブログで同じ内容、表現も文章も似通ったものを見た。
単なる偶然かもしれないし、同じ人間が書いているのかもしれない。
ただ少し違ったのは、一方は自分の意見が抽象的で簡潔、もう一方は自分の意見が具体的であること。
これが何を意味するか、それは想像の域を出ない話だから、何とも言いようが無いけど。
その内容をコピペする。以下引用。
「人のせいにしない、病気のせいにしない、家庭環境のせいにしない 言い訳をしない」
引用終わり。
「人のせいにしない、病気のせいにしない、家庭環境のせいにしない 言い訳をしない」
どちらの書き手も、上記のことを「自分で作ったルール」といった表現をしていた。
そして、「人は自分の作ったルールで自分を縛っている」という表現も同じだった。
どちらかが、どちらかの文章を見て、そこから書き出したのだとも思うけど、まぁそんなことは正直言ってどうでもいい。
僕はここで反論する。これらは馬鹿げたことだ、って。
簡単なことだよ。
「その人の内面、事情もしらないくせに、そんなこと言ってんじゃねぇよ」ってこと。
何かのせいにする。
そもそも、それの何がいけないの?
本当に、その何かのせいかもしれないのに。
僕はよく、電車に乗ることができない例を挙げる。
理由は、僕の経験から。
僕は「電車になんて乗れるわけが無い」などとは、自覚して縛ったことなど一度も無い。
僕はただ「電車に乗るのが怖い」と自覚していただけだ。
それでは何故、電車に乗ることが怖いのか?
それは、狭い空間の中で、多くの人と長時間(田舎なので特に)一緒にいなければならないことが怖かったから。
その前提として、人と一緒にいることが怖いから。
もっと言えば、人が怖いから。
人が怖い理由は精神的なものにある。
それじゃ、上記の言葉を利用して僕のことを書いてみよう。
僕は、「兄に虐待され」、「精神的な病を患った」。また「複雑な家庭環境」ということもあり、治療に時間がかかった。そのため、「僕は人が怖くなった」。
カッコしたところは、~のせいにしないという部分に該当する。
さて、こんな事情も知らない人間は、兄のせいだ、家族のせいだと書くと何かと「~のせいにするな」とほざく。
そのような書き手は、人のことを知りもしないで、ただ「~のせいにしないこと」というものを、一般化しようとする。
全くもって馬鹿げてるとしか言いようがないね。
確かに、誰かの、何かのせいにして自らの責任を逃れようとする輩は実際に存在するのだろう。
けれど、それは果たして「全て」なのだろうか?
そんなはずはない。
責任逃れのために誰かの、何かのせいにする人がいる。
その一方で、不可抗力によって、誰かの、何かのせいにで被害に遭った人もいる。
その不可抗力を頭にいれず、何をもって「~のせいにしない」なんて主張をするのかが、さっぱり僕にはわからないね。
また、彼らの主張はこうだ。
「~のせいにすることで、自らを縛っている」と。
彼らの言いたいことを例にあげるとするならば、
僕が就職活動が上手く行かないのは、精神的な病を患っているせいだ。「だから就職活動など止めてしまおう」。
つまり、「精神病のせいで就職活動を止めるという縛りを、自分にかけている」こう言いたいのだろう。
確かに、僕の今の思考は、精神的に就職活動を続ける状態ではない、と僕自身が思っている。
そして、履歴書を書くことを止め、ただ日々を過ごしている。
しかし、これは精神病のせいにした自分への縛りなのだろうか?
僕はそうは思わない。
もしかして君達は、皆が皆、同じ人間関係、健康状態、環境だと思っているの?
そんなわけないだろ。
なにより、僕の何を知っているの?
アームカットした時の気持ち、君達に理解できるのかな?
できるわけないよね。
だって、当事者じゃないんだもん。
なにより、何もかもが同じ人間じゃないんだもん。
「~のせいにしない」
これは、安易に人の・何かのせいにしてはならないという、意味合いの言葉だと僕は思う。
けれど、安易に「~のせいにしない、それこそが自分を縛っているのだ」ということを人に主張することこそ、馬鹿げているよ。
始めに書いたように、彼らはこの縛りをルールと表現していた。
繰り返しになるけれど、人は1人として同じ人間は存在しない。
同様に、ルールが形成された過程も十人十色なんだ。
だから、そのルール(縛り)が無くなった、または緩和されたからといって、全ての人間において良いものとは限らないんだよ。
そのルールがあるおかげで、自らを守ることに繋がる事だってあるんだ。
真面目に、誰のせいにすることもなく、全てを自分が背負って、自殺をする人がいるだろう?
そういった人達の家族に、このような主張を君達はできるのかな?
苦しいときに誰かのせい・何かのせいにして、責任から逃げることは決して悪ではないと僕は思う。
もしその責任逃れの当事者が犯罪者であれば別だけどね。
日本は法治国家であり、刑法典及びその他法律等に違反した者は、適正な手続きによる公正な裁判をもって裁判を受け、もし、有罪であれば責任を取らなければならない。
けれど、違法なことは何もなく、ただ苦しくて逃げる人のことを悪とするのは絶対におかしいよ。
そこまで人は「管理」されなければならないの?
よく言うでしょ。
「死ぬくらいなら逃げろ」って。
ま、逃げたら逃げたで、社会的責任や道義的責任は、結局その人について回るだろうけどね。
以上が僕の意見。
多分、歪んだ部分もあるだろうけど、僕自身の思考が歪んでいるからそこは勘弁。
僕はこれからも、誰かのせいにするし、何かのせいにもする。
だってそれは現実なんだもん。
誰かが居たから、何かがあったから今の歪んだ僕がいる。
この歪みを生じさせた人や事象を僕は忘れないし、それらのせいだとこれからも主張し続けるよ。
なぜなら、僕の歪みは「それらのせい」だからね。
不可抗力。人は産まれてくる上で、親も国も自ら選ぶことはできない。
そんな不可抗力に対して、「それは縛りだ」なんて面白い姿だよね。
そもそも、不可抗力なんて頭に入れてなかったのかな?
どっちでもいいけど。
以上。
終わり。
単なる偶然かもしれないし、同じ人間が書いているのかもしれない。
ただ少し違ったのは、一方は自分の意見が抽象的で簡潔、もう一方は自分の意見が具体的であること。
これが何を意味するか、それは想像の域を出ない話だから、何とも言いようが無いけど。
その内容をコピペする。以下引用。
「人のせいにしない、病気のせいにしない、家庭環境のせいにしない 言い訳をしない」
引用終わり。
「人のせいにしない、病気のせいにしない、家庭環境のせいにしない 言い訳をしない」
どちらの書き手も、上記のことを「自分で作ったルール」といった表現をしていた。
そして、「人は自分の作ったルールで自分を縛っている」という表現も同じだった。
どちらかが、どちらかの文章を見て、そこから書き出したのだとも思うけど、まぁそんなことは正直言ってどうでもいい。
僕はここで反論する。これらは馬鹿げたことだ、って。
簡単なことだよ。
「その人の内面、事情もしらないくせに、そんなこと言ってんじゃねぇよ」ってこと。
何かのせいにする。
そもそも、それの何がいけないの?
本当に、その何かのせいかもしれないのに。
僕はよく、電車に乗ることができない例を挙げる。
理由は、僕の経験から。
僕は「電車になんて乗れるわけが無い」などとは、自覚して縛ったことなど一度も無い。
僕はただ「電車に乗るのが怖い」と自覚していただけだ。
それでは何故、電車に乗ることが怖いのか?
それは、狭い空間の中で、多くの人と長時間(田舎なので特に)一緒にいなければならないことが怖かったから。
その前提として、人と一緒にいることが怖いから。
もっと言えば、人が怖いから。
人が怖い理由は精神的なものにある。
それじゃ、上記の言葉を利用して僕のことを書いてみよう。
僕は、「兄に虐待され」、「精神的な病を患った」。また「複雑な家庭環境」ということもあり、治療に時間がかかった。そのため、「僕は人が怖くなった」。
カッコしたところは、~のせいにしないという部分に該当する。
さて、こんな事情も知らない人間は、兄のせいだ、家族のせいだと書くと何かと「~のせいにするな」とほざく。
そのような書き手は、人のことを知りもしないで、ただ「~のせいにしないこと」というものを、一般化しようとする。
全くもって馬鹿げてるとしか言いようがないね。
確かに、誰かの、何かのせいにして自らの責任を逃れようとする輩は実際に存在するのだろう。
けれど、それは果たして「全て」なのだろうか?
そんなはずはない。
責任逃れのために誰かの、何かのせいにする人がいる。
その一方で、不可抗力によって、誰かの、何かのせいにで被害に遭った人もいる。
その不可抗力を頭にいれず、何をもって「~のせいにしない」なんて主張をするのかが、さっぱり僕にはわからないね。
また、彼らの主張はこうだ。
「~のせいにすることで、自らを縛っている」と。
彼らの言いたいことを例にあげるとするならば、
僕が就職活動が上手く行かないのは、精神的な病を患っているせいだ。「だから就職活動など止めてしまおう」。
つまり、「精神病のせいで就職活動を止めるという縛りを、自分にかけている」こう言いたいのだろう。
確かに、僕の今の思考は、精神的に就職活動を続ける状態ではない、と僕自身が思っている。
そして、履歴書を書くことを止め、ただ日々を過ごしている。
しかし、これは精神病のせいにした自分への縛りなのだろうか?
僕はそうは思わない。
もしかして君達は、皆が皆、同じ人間関係、健康状態、環境だと思っているの?
そんなわけないだろ。
なにより、僕の何を知っているの?
アームカットした時の気持ち、君達に理解できるのかな?
できるわけないよね。
だって、当事者じゃないんだもん。
なにより、何もかもが同じ人間じゃないんだもん。
「~のせいにしない」
これは、安易に人の・何かのせいにしてはならないという、意味合いの言葉だと僕は思う。
けれど、安易に「~のせいにしない、それこそが自分を縛っているのだ」ということを人に主張することこそ、馬鹿げているよ。
始めに書いたように、彼らはこの縛りをルールと表現していた。
繰り返しになるけれど、人は1人として同じ人間は存在しない。
同様に、ルールが形成された過程も十人十色なんだ。
だから、そのルール(縛り)が無くなった、または緩和されたからといって、全ての人間において良いものとは限らないんだよ。
そのルールがあるおかげで、自らを守ることに繋がる事だってあるんだ。
真面目に、誰のせいにすることもなく、全てを自分が背負って、自殺をする人がいるだろう?
そういった人達の家族に、このような主張を君達はできるのかな?
苦しいときに誰かのせい・何かのせいにして、責任から逃げることは決して悪ではないと僕は思う。
もしその責任逃れの当事者が犯罪者であれば別だけどね。
日本は法治国家であり、刑法典及びその他法律等に違反した者は、適正な手続きによる公正な裁判をもって裁判を受け、もし、有罪であれば責任を取らなければならない。
けれど、違法なことは何もなく、ただ苦しくて逃げる人のことを悪とするのは絶対におかしいよ。
そこまで人は「管理」されなければならないの?
よく言うでしょ。
「死ぬくらいなら逃げろ」って。
ま、逃げたら逃げたで、社会的責任や道義的責任は、結局その人について回るだろうけどね。
以上が僕の意見。
多分、歪んだ部分もあるだろうけど、僕自身の思考が歪んでいるからそこは勘弁。
僕はこれからも、誰かのせいにするし、何かのせいにもする。
だってそれは現実なんだもん。
誰かが居たから、何かがあったから今の歪んだ僕がいる。
この歪みを生じさせた人や事象を僕は忘れないし、それらのせいだとこれからも主張し続けるよ。
なぜなら、僕の歪みは「それらのせい」だからね。
不可抗力。人は産まれてくる上で、親も国も自ら選ぶことはできない。
そんな不可抗力に対して、「それは縛りだ」なんて面白い姿だよね。
そもそも、不可抗力なんて頭に入れてなかったのかな?
どっちでもいいけど。
以上。
終わり。