くろにわの雑記

精神障害者の日常、ゲーム、その他雑記です。

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人は様々な顔を持っている。

で、書こうと思った。
何故かと言えば、自分は、「自分に見せてくれなかった顔を、その人には見せていたかもしれない」という被害妄想を過去に持っていたことがあったから。

登場人物は自分、Aさん、Bさん。

たとえるなら、AさんはBさんに見せる顔がある。
けれど、Aさんは俺にその顔は見せない。

見せていたのかもしれないけど、自分はきっと「この顔」ではないと考えていた。
だから、自分はのけ者にされているのだと。
完全なる被害妄想。

誰でも、この人にはこの顔を見せられるけど、他の人には見せられない、という顔を持っているはず。
自分は、それに嫉妬していたのだから、本当に幼稚だったと思う。

もう1つ。
孤独について。

「なんとなく一緒にいる人さえいない」という人を「孤男」と称するのならば、自分はその部類に当てはまる。

けれど、自分は「なんとなく一緒にいる人」など欲しいとは思わない。
誰かと一緒にいることに理由は必要か?

自分には必要だ。

自分は何故、嫌いな母と一緒に暮らしているのか?
それは、嫌な電話に出なくて済むし、郵便物も受け取ってくれる。よって居留守も使う必要もない。
また、食材も買ってきてくれるので、便利であるから。
自分は。母が嫌いと言いながらも一緒にいる理由はそういうことである。

しかし、話は家庭内のことを言っているのではないのだろうと、想像する。
なので、学校に話を移す。

自分は、1年次から3年次後期の今まで、「なんとなく一緒にいる人」を必要としなかった。
そしてそのことは、実際に楽ではあった。

mixiやその他ブログなどで、独りで弁当を食べるのが辛いとか、トイレで食べているというのを目にしたことがある。
それにも共感できなかった。
自分は、独りで食べ物を食べるのは平気だ。
自分は大体、いつも独りで2回のイスに座ってお昼ご飯を食べている。

それを辛いと思ったことはない。
一方、その近くで集団がワイワイと騒ぎながら昼食をとっているところを見たときには、嫉妬はするけれど、特段、気にすることでもなかったし、今もない。


と、感想はここまで。

人は独り。
この考えが離れない。
人は決して独りじゃないという言葉も、自分はかき消す。
そう言う人は、自分が現状で独りじゃないから、人は独りじゃないと言えるのだ。
言えるのだ、ってバカボンのパパみたい。

と、昔からそう思う。

最近、自分は主治医に言われた人格を意識し始めている。
つまり、ウィキペディアや、他の情報媒体に載っている「統合失調質という人格の人」に、より近づこうとしている。
孤独を好むと言うのだから、自分もきっと本来は孤独が好きなのだろう。
だから、人と関わるのは止めようとか。

けれど、それに歪みと言えばいいのか、そういうのが生じていて、感情が乱れている。
本当は嫌だけど、人が言ったのだからそうなんだ、という心持ち。
主治医は言った。
自分は主治医だけを信頼してきた。
その主治医が言った言葉を信じるなと言われたら、自分は何を信じれば良いのかわからなくなる。

まぁ、その主治医とも、来年の1月でさようならなんだけど。
主治医が変わったら、次の担当医には、先日否定していたお薬屋さんにでもなってもらおうかと、そう考えたりもしている。

誰を信じればいいのかわからない。
信じてきた母に裏切られたトラウマも、ここにある。
信じてきた家族、親類も含まれるか。
人間不信の極み。

自分の首を絞めて、それでも死にきれない。
笑っちゃわないか?w
自分は、今、書いていて笑ってしまった。
死の何が怖いんだろうな。
苦痛か、何なんだろう。
やっぱり苦痛だな。
だって、注射すら嫌だし。

でも、内定がもらえなかった、もう人生が終わるらしいので、終わります。
笑っちゃうね。
今までも全て無駄なんだよw